優越感を感じるから褒めるわけだろ

 学校の先生と生徒は本来は師弟だよな。だけど、親方と弟子みたいな関係にはなっていないな。なっていたら世の中はもっと違うだろうしな。先生と生徒はまだまだ他人だよ。先生はほんとうにその子が立派に育って欲しいと思っているんだろうか。あるいは思っているかもしれないけれど、実際はそうしているようには見えないよ。無事に何もなく静かに卒業していってほしいと思うほうが強いんじゃないか。(中略)

 だから、そういう忍耐というか我慢というか、そういうものが一つもなくて、人と接するという時代だから、昔とは全然違ってきているわけだよ。

 人を預かるとか、人を教えるとかいうのは、そんな軽いものではないよ。それこそ、その子がいろいろなことを気づくまで、じっと待ってやって、その子が感じて、そして行動をとって、思い切りやって、本当に一所懸命やった結果であれば、それがどうであろうと、結果はいいよ。一所懸命きちっとやれれば、それでいいんだ。そこまでの責任は親方が取るわけだ。だからまかせるにしても、放り出してやるにしても、背負うのは親方や。

 そんなだから、弟子の側に行って、「ようやった」とか、そんなふうに褒めるのはバカだよ。だいたい、いまの人は褒めるけども、そんなもんじゃないわ。

 褒めるっていうのは、自分が優越感を感じているから褒めるわけだろ。自分は何もしないのに。それこそずるいよ。弟子だって、ずっとやっているんだから、褒められたくてやっているんじゃないってことに気づくよ。師弟とはそういうものやと俺は思うな。(小川三夫『不揃いの木を組む』) 

 すでに別のところで触れていますが、小川光夫さんは宮大工の棟梁。法隆寺、法輪寺や薬師寺金堂の修理や創建に西岡常一さんの副棟梁として従事した大工さんです。その後、宮大工(養成)集団「鵤(いかるが)工舎」主宰しましたが、いまは後進の指導に当たっておられます。詳しいことはともかく、ものを学ぶというのはどういうことかを如実に示してくれるのが小川さんの「現場」主義です。大工の仕事場(建築場)であり、教師の仕事場(教室)です。「現場」という言葉の有する雰囲気にぼくはあこがれてきました。現場で自分のすること、すべきことがあるから「現役」なんですね。

 この二つの「現場」はもともと一つであったとおもわれますが、いつとはなしに(学校教育が始まってからでしょうか)はっきりと分離したのです。それがいいか悪いかということではなく、ものを学ぶ方法や目的が異なってしまったという意味です。またものを学ぶ側にも二通りの人間が生み出された(いいかえれば、新たに「もの学びの人種」が作られたということです)ことになります。学校の登場は「教えられる人間の登場」でもありました。

 《大工というのは、まず自分ができなくてはならない。他人じゃないんだ。みんなしてどうこうしようというのはいかん。それは、まだ学校の気分が抜けないからだな。なぜできないやつがそういうことをしたり、いうかといったら、結局は自分に自信がないからだ。自信があれば、そんなものいらん。一人でもやる。(中略)

 できないやつにかぎって、仲間だからといって、いたわりみたいな気持ちでやっているのだろうけれども、そんなのは仕事のうえでは必要ないんだ。みんなして相談しあいながら、人のあらはほじくらないように、痛いところは触らないように気を遣ってというような、そんな考えではだめなんだ。それというのも、要するに、自分自身が弱いからだよ。 触れられたくないから触らない。そういうことも、まあ、年格好も腕も同じぐらいだからそうなってしまうんだな。そういう状況だと、仕事は上のやつが引っ張るんではなくて一番最低が平均点になってしまうんだ。

龍源院(座間市)鵤工舎施工(平成27年9月)

 きっと学校ではそういうふうに教えているんだろうな。小学校でも中学校でも人の悪口をいうのはやめましょうとか、みんなでかばい合いましょうとか、助け合ってとか。学校の先生は、二年先か三年先のことを考えればいいけど、俺らは一生食える職人に育てなければならない。一生のことを考えたら、かばい合いとか助け合いだとかの前に、自分がちゃんと生きていく技を身につけなくてはいかんということがあるんだ。 

 生きていくための職業だとか、一生自分のためだとかいう考えは学校にはないからな。これは先生にもないものな。そういう点でも、いまの学校はだいぶひどいらしいな》(同上)

 昔から大工さんの仕事を見るのが好きでした。一日中、見ていて飽きることがなかった。そのうちに自分でも大工になろうかと考えたこともありました。もちろん、大工に必要な肝心なものがいちじるしく欠けていたので、その望みは絶たれてしまいましたが。

 どうして大工さんに惹かれたのか、というよりは「大工の現場」に魅せられたのか。そこに「仕事」があるからだということだったと思う。まちがいなしに「現場」がそこにあったからです。

富山県高岡市国泰寺

 小川さんたちが八一年年から三年がかりで取りかかった仕事に、富山県高岡市の国泰寺建立がありました。その時にはつぎのようなエピソードが残されました。

 国泰寺の現場で朝の散歩をしていたら稲葉心田老師に会った。

 「老師、みんな、朝ここへ来て座禅を組んでいるようですけど、うちの職人にも座禅を組ませなくちゃいけませんか」

 「バカッ、あんなのは暇人のするこった。おまえらはそれだけの時間があれば仕事をせい。それが座禅以上の修行だ」

 やるべき仕事があるというのはそういうことなんですね。仕事に没頭する。

 《職人っていうのは、考えたことと実際にやることの両方をするんだから大したものだと思うんだよ。ほかのものは知識だよ、知識だけでいいんだから。大工は知識だけじゃないんだから。知ったことを生かさなくてはならない。生かしてものをつくるんだから。それができるようになれば、後のことはついてくるんだ。

 試験なんか記憶力のテストだけど、職人の仕事はその人の全人生や。

 木に鋸(のこぎり)を入れたら、それで終わりだよ。元に戻せない。真剣勝負ですよ》(同上)

 「知ったことを生かさなくてはならない」という教育の現場はどこにあるのでしょうか。

投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)