初めて「登校拒否」という日本語を知ったとき、ぼくはどこか、すがすがしい気分を味わった。自分の過去のひそかな一コマを思いがけず、棚ぼた的に公認されたような感じがして。
子どもが学校に不安を覚えて心理的な理由で行けなくなるケースは、もちろんアメリカにもある。けれど、それを歴(れっき)とした社会現象といちづけて、簡潔且つオフィシャルらしく表してくれるイディオムがないのだ。あるいは、カウンセラーたちの間で何か用語が使われていながらも、一般に流布していないだけのことかもしれないが。(A. ビナード「ウルシ休み」『空からやってきた魚』所収、草思社刊。2003年)

和英辞典には:
refusal to attend school (登校拒否)
psychological hatred of attending school(心理的理由からの登校ぎらい)
schoolphobia(学校恐怖症)
truancy(ズル休み)

A. Binardさんは1967年、アメリカ・ミシガン州生まれの在日米国人。「朝美納豆」と日本名表記。詩人、文筆家、ラジオ出演も。広島在住。最近は島のあちこちで講演活動を重ねてもおられます。その彼が上に紹介した文章につづけて、次のように語っています。「学校なんか行きたくないなあ」というのは、古今・東西を問わず、いつでも見られる現象だったことが分かります。ただ、その現象に対して、社会(世間)がどのような反応を示すかが彼我のちがいのようです。

《ぼくは中学校でtruancyに手を染め、高校でも続行した。だがschollphobiaの経験は小学二年生のときの一度だけ、それも本当の「登校拒否」とはいえず、ニアミス程度だった。夏休み中に引っ越し、転校生として新学期からクラークストーン・エレメンタリー・スクールに入ることになったぼくは、ミセス・ウエストランドの教室は何だか冷ややかで、自分の居場所がうまく見つからなかった。先生とのコミュニケーションも取れず、そんな或る朝、ぼくは母に「学校はやめた」と宣言したのだ。》
それに対してお母さんはどのように答えたと思われますか。
「そんなことは許しません」

「行きたくなければ行かなくてもいいのよ」
「わたしには関係ないことだわ」
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…そんな或る朝、ぼくは母に「学校やめた」と宣言したのだ。
「そうなの?」といって理由を聞いたり、「行った方がいいと思うけど」とやわらかくアドバイスするみたいに母は話したけど、無理に登校させようとはしなかった。その日の午後はずっと『大草原の小さな家』を数章分、読み聞かせてくれた。

翌朝、ぼくが再び「行かない」というと、パジャマ姿のままいっしょにシリアルを食べながら、母は自分が子どもだった頃のエピソードを問わず語りに ― 厳しいカトリックの小学校に通っていた母は、クラスきってのおてんばで、低学年からすでにズル休みの常習犯だった。とはいえ、老練な修道女たちは容易にだまされず、親にもだんだん見ぬかれてしまい、しかしそれでもズル休みの新しい手口を捻り出そうと日々探求していた。そこでふっと思いついたのが「ポイズン・アイビー」。(同上)
ズル休みと登校拒否
「登校拒否」にあてはまる言葉がアメリカにはないということから、ビナードさんはみずからのschoolphobia(学校恐怖症)の体験を語っていたのでした。小学校の頃に、担任教師とウマが合わず「学校やめた」と宣言したら、母は自分のtruancyのことを話してくれた。ポイズン・アイビーは「ツタウルシ(蔦漆)」。その枝葉にふれるとたいていの人ははげしくかぶれます。お母さんは、この漆にかぶれれば学校が休めると考えて、友だちと林に入って、ご丁寧にも葉っぱを身体に塗りつけたそうです。(しめしめ、と思ったことでしょう)
その結果は?なんと治るのに二週間もかかった重度の皮膚炎になり、まるで拷問の苦しみを味わったといいます。「こんなひどい全身のかぶれなんて見たことがない、一体どうしたんだ!と祖父が繰り返し追求したところ、とうとう母は白状して、泣き面に蜂の大目玉を食らった」

「母の話は覿面(てきめん)ではなかったが、じんわりと効果があって、一週間休んでから、ぼくはまた学校へ行き出した。そしていたたまれない気持ちになったとき、全身皮膚炎の試練を想像して、少しは楽になった気がする」
ことの顛末(てんまつ)を聞いてしまえば、「なんだ、そんことか」とあまり印象には残らないかも知れませんが、それは学校に行きたくなかったご当人ではないからでしょう。行きたくないし、行かなければならないと焦っているこども(ビナード)にとって、母親の経験談(だった?)は、「学校(教室)へ行くのはいやだ」という引くに引けない緊張状態を少しはほぐしてくれることになったんじゃないでしょうか。学校の絶対性とでもいうべき掟に穴が開いたのかもしれない。

「お前はズルしてるんだ」と真正面から迫ってこられたら、結果はどうなったでしょうか。これは登校することが暗黙の前提、無条件の約束なんだとかたくなにとらえられていてはできない相談です。どんな関係をふだんから築いているかという親子の関係(コミュニケーション)のなかで交わされた感情の綾だったとも思うのです。
そこまでいって、さらに学校にむやみに自分をあずけるのはどうかと考えます。これはぼく自身の経験であり感覚でもありますが、学校や教師から一歩も二歩も身を引いておくことが大切なんじゃないですか。その理由は? 繰り返してあちこちで騙っていますね。

つまりは、学校は絶対ではないということ、あるいは、ぼくは学校を全否定はしませんでしたが、相対的なものととらえ、自分とは五分五分じゃないかと幼いなりに悟ったんじゃなかったですかね。成績はふるわなかったけれど、あんな勉強、その気になればいつだってできるさ、とたかをくくっていました。いまだに「その気」にはならないままですが。学歴も学校歴も、わが身の丈には合いませんよ、古すぎて。(若いころ、まわりに「博士号」を所持しているのがたくさんいました。「偉いのか」と思っていたが、当人を見るとどうもそうでもない、まるで「クズ(屑)」にしか見えなかった。それなりに歳を重ねて「学位」の仕組みがわかって納得したのでした。何十年も前に取得したものをいつまでもぶら下げているんじゃないよ、と悪態をついたものでした。運転免許証だって、三年ごとに更新講習や試験がありますよ)(「学位」を金で買った知(痴)人もいたね)