多数派から多様性へ

 生命は、生化学が口ごもってしまうような、ぎりぎりの物理的環境まで平気で適応しており、嵐などありふれた自然の気まぐれなどにはびくともしないほど多様なのだ。だがこのような弾力性を可能にする多様性という特質も、自然による攪乱より大きな打撃には弱い。異常なストレスが続けば、さしもの多様性もだんだんむしばまれ、取り返しがつかなくなることもあるのだ。こうした脆(もろ)さは、地理的な分布が限られた種が寄り集まっているという、生命の構成からきている。ブラジルの雨林から南極の湾、熱水噴出口にいたるどんな生息場所をとってみても、そこに特有の動植物の組み合わせがある。

 そこに住む動植物の各種は、それぞれが食物網のなかでほんの一部とだけ結びついている。一種がいなくなれば、たちまち他の種が増えてそれにとって代わる。多数の種がいなくなれば、その場所の生態系は目に見えて崩壊し始める。栄養物の循環回路がふさがるので、生産力は落ちる。バイオマスの多くが、枯死(こし)した植物や代謝が遅く酸素の欠乏した泥となってたまり、あるいはただ流出してしまう。花の花粉に最も適応したハナバチやガ、鳥、コウモリなど、特殊化した種が姿を消すに従って、それにとって代わるのは彼らより能力の劣る送粉者だ。そうなれば結実して地上に落ちる種子の数は減り、芽生えの数も減る。植食動物も減少し、それらを獲物にする捕食者もきびすを接するようにいなくなってしまう。(E.・O. ウィルソン『生命の多様性』岩波現代文庫版)

 原著は1992年に出されているこの本から多くの刺激を受けました。生態系といい食物連鎖というものは自然環境の掟ではあっても、人間(人類)には直接には関係しないとでも思わなければできそうもないような破壊や乱獲によって、わたしたちは多数の動植物種を絶滅にいたらせてきました。たとえば、ホタルやメダカが棲息出来ない環境とは何でしょう。そんな環境に適応している(と思われている)人間・人類ってどんな生物なんでしょうか。もう半世紀以上も前に『沈黙の春』を読んだときの衝撃を忘れることはできません。人間にとって都合がわるい(と勝手に決めてしまうのだから、その動植物にはこの上ない迷惑です)もの(害虫・害獣というのです)を退治するための、科学や技術の粋をこらして直進してきました。いまは人間も「害虫・獣」並みに遺伝子を破壊され、挙句に生命すら左右される事態に直面しているのです。

 ある種の人間集団は、自然の摂理に反してまで、多様性(diversity)を目の敵にしてきました。つまり多数派(majority)を懸命に追求してきたというわけです。そこでは一人はみんなになるように強いられます。みんなが一人であり、一人がみんなになったときに、見事に多数派(というのだろうか)、全員一致ができあがるのです。そうまでして、一致団結するのはどうしてなんでしょうか。ウィルソンの指摘をまつまでもなく、多様性が崩されれば、人間をも含めた生命の維持体系は機能しなくなるでしょう。

 エネルギー・デモクラシーという言葉を聞くことがあります。ごく素朴にとらえていいのだろうと思うのですが、化石燃料一辺倒ではつねに危機(政治的・経済的・環境的)に見舞われるし、さまざまなエネルギー源が共存している方が健全だということです。それは具体的には太陽光も風力も地熱も…、といった具合に、それぞれがみずからの環境に適したエネルギー源を確保することでもあります。必要以上に多数派が形成されることは私たちの生態系(eco-sysytem)にとってはきわめて不健全であり、だからこその多様性なのだと「学校」という集団化促進装置を横目にしながら、いつでも考えているのです。

「殺虫剤」を人間に「噴霧」

(蛇足 『沈黙の春 (Silent Spring)』(1962年)を書いたレイチェル・カーソンは海洋生物学者でした。殺虫剤として作られた DDTが農薬として使われ、地中(環境内)に残留した結果、生態系に深刻なダメージを与えるとされ、大きな反響を呼んだのです。「春になった。鳥が鳴かない」という奇怪な現象から説き起こした同書をぼくは夢中で読んだものでした。その直後には販売(使用)が禁止されました。大学生のころです。この薬はマラリヤには効果が高いとされ、その結果から、カーソンは内外で非難されたことがありました。ぼくは戦後にこのDDTを頭から大量にかけられました。劣島ではほとんどの島の住民がかけられた経験がありますね。虫が死ぬということは…。

 農薬開発などにかかわる問題に関しても、いずれは触れてみたいと考えています。ぼくはときには「草取りの翁」ですが、雑草を枯らす農薬が発がん性物質を含んでいるとして、諸外国では発売・使用が禁じられているにもかかわらず、この島では白昼堂々と販売され、多くの人がそれを自宅のきれいな庭やおいしい野菜のとれる畑でふんだんに散布しているのです。いくつかの機関や国では禁止され、反対にいくつかの機関や国では問題はないとして使用を認めています。

 禁止された国や地域から販売が禁止されていない国や地域に大量に輸入されるのがグローバル化の特徴でしょう。どこかで売れれば、それで結構というわけです。でも、「雑草」や竹が枯れ死するということは…。商品名(RU)は控えます。ホームセンターの目立つ棚で大量に陳列されています)

 教師っていってもなんでもないのさ

 生徒の反抗は、個々の教員の授業スタイルや教科内容にたいしてというよりむしろ、学校というもののたたずまいや教育関係の枠組みにたいして向けられている。経験的に体得された全体としての階級文化に照らしてそれらが相対化されるところに、生徒の反抗の真因があるのだ。そして、授業のスタイルや具体的な学習内容に工夫をこらすことはできても、学校の構成や教員ー生徒の規範的な教育関係を変えることはきわめて困難である。それでも個々の教員は、現存の学校秩序を与件としながら、居心地の悪い教室で不本意な授業をつづける以外にないし、そういう日々の実践から長期的は展望をつむぎ出すほかない。(略)

 今、教育の「危機」がやかましく論じられている。論争の渦中にあるのは進歩主義教育の基本的な考え方でありその適格性である。議論のトーンは高くなる一方だが―そして、実際に教壇に立っている教員たちの声が事実上かき消されていること、生徒たちの声に至ってはまったく耳に入ってこないこと、その点がいかにも気になるけど―実情から見れば、それは徹頭徹尾イデオロギー的な争いである。真の論点は、学校教育という場で生起する階級対立にあり、労働力の再生産過程にあり、総じて文化と社会の再生産過程にあるはずだ。(ポール・ウイリス『ハマータウンの野郎ども』熊沢誠・山田潤訳、筑摩書房。ちくま学芸文庫版もあります)

 Learning to LabourーHow working class get working jobsというタイトルで本書をウイリス(社会学者)が出版したのは1977年のことでした。「学校への反抗・労働への順応」といえば、いかにもイギリスの話だということになりそうですが、わたしたちの社会においても同じような問題が発生していたにちがいないのです。そして現在も、それとは同根ではあっても、別種の学校とのたたいが行われているのだといいたい、それはけっしてだれの目にもはっきり映っているとは思えないのですが。「学校の種別化」というのはどういう問題から生じたのか。教育における「格差」でしょうか。それとも、人によって在学する学校というものが社会的(階級的)に決定されているとでもいうのかしら。

 「反学校の文化の内奥から表層まで一貫している特徴は、『権威=当局』(オーソリティ)に対する、類型的でもあれば個性的でもある抜きがたい敵愾(てきがい)心である」(同上)

 (何人かの生徒の対教師への「敵愾心」をこもごもに述べています)

ジョウイ …教師はおれたちを処分できる。教師はおれたちよりもえらいんだ。やつらにはおれたちよりもでかい組織がひかえてる。おれたちのはタカがしれてるけど、教師はでっかい制度を味方にもってるものな。それでも、言いなりになるってのはシャクじゃないか。なんていうかな、権威ずくってのはムカツクね。

エディ 教師だからっていうだけで、教師は自分たちのほうがえらいし、力もあるんだって思ってるのだ。でもほんとうはさ、教師っていってもなんでもないのさ。ただのふつうの人間じゃないかよ、なあ。

ビル 教師って、よほど何でもできると思ってるんだ。そりゃ、おれたちよりはできもよくて、えらいかもしれないけどさ、やつらはそれよりももっとえらいって思ってるんだぜ、そんなことないのにさ。

スパンクシー ファースト・ネイムで教師を呼びつけにできたらどんなにいいだろう。やつら、まるで神さまきどりだもんな。

ピート 神さまならよほどましだよ。

 「反学校的」な男子生徒は自称〈野郎ども〉(the lads)と名乗っている。彼らの悪態はとどまるところをしらない。(彼らに対する、筆者のウイリスのインタビュー)これだけあけすけに、言いたい放題に口にだして言うのは「健全」なんでしょうか。反対に、表向きはいい子ぶっていて、実際はえげつないほどに学校や教師を軽蔑している子がいるとするなら、それに対してどういえばいいんですかね。〈野郎ども〉は優等生にむかっては〈耳穴っこ〉(ear’olesーear holes)とさげすんで呼ぶのです。

ビル 教師に接する態度ってものを連中はやかましくいうだろう。生徒のおれたちに接する態度ってものもあるはずだよ。

ジョウイ 人生、ちょっぴりおもしろくしようと思うんなら、教師がしてくれたことになにかお返しをしてやることだよ。

 学校とはなんだろうか?

 「能力主義の社会秩序とその教育体系は抜きさしならない二律背反を含んでいる。なぜというに、大多数は敗者となる定めであるにもかかわらず、全員が同一のイデオロギーに与(くみ)しつつ競い合うことが求められているのだから」(ウイリス)

 「だれだって、やればできるのだ」だって。ホントかね。学校はどの地域でも、どの国においても似たりよったりで、まず同じような顔をしているんだ。学校はなくならない、そして行かなくてはならないものなら、それとの付き合い方を十分に学ばなければならない。「野郎ども」のような反抗心むき出しの行動や態度もありえますが、そこはもう少しかしこくつきあいたいものです。ぼくが願うのは、学校の餌食にならないことです。あまりにも近づきすぎたり、反対に全く学校と交わりを持たないのも、どうでしょう。ぼくは早い段階から、学校や教師に不信・不審の念を隠さなかった。「優等生」にはなる気がなかったし(なれなかったのではないさ)、劣等生に甘んじるものどうかね、という中途半端な姿勢を貫いていた(結果からみれば)とも言えそうです。(「権威ずくってのはムカツクね」、ホントに)