教育者に主義のあるのは非常に宜しい。又何々主義の教育の如き名称を有するのも便利であるに相違は無いが、主義の適用には大いに考慮を費さねばならぬ。主義に囚われた教育者ほど厄介なものは無い。微妙至極の人性を取扱うのに主義などを振回されてはたまったもので無い。教師は主義を立するのもよいが早く主義を超越しなくてはならぬ。

私は学習の名称を用ゐる。時には自律的学習と云ふが、その自律的たる形容詞も時には誤解の種子となることがあるから用ゐない方がよいかとも考へる。只教育と云へば教師の側面から眺めた様に思はれるから、児童の方から眺めた学習と云ふ名称を用ゐるのである。
学習の意義は沢山ある 学習を単に事実の記憶とするならば、それは学習を最も狭義に用いたもんである。有機体が外界の刺戟に反応して起す所のあらゆる変化を学習というのならば学習の意義は最も広い。…生活によってよりよく生きることを体得するのが学習で、学習は生活を離れて存するもので無い。

我が現時の教育に於て知育偏重の弊が指摘されている。如何にも知育の偏重は悪いが偏重と言うよりも寧ろ知育の不徹底と云いたい。及ぼしては教育方法の不徹底と云いたい。情操教育を十分にしないで何とて知育の徹底があろう。人生を渾一的に取扱わず、徒らに分析的思想に囚われた教育をするから、知育偏重の弊を痛感せねばなら様になるのだ。…余は再び云う知育偏重でなくて知育の方法が悪いのであると。
学習室は生活場 いまの教室生活は余りに静止的で活動的で無い。又束縛的・定型的・受動的だ。之を改めて自立的に発展的に能動的に学習する様にしたいものである。…教室と云うより学習室と云うほうが適当であろう。
教科書学校 社会国家の進歩に伴うて学習も進歩したならば社会応じ又社会を創造することが出来るのだろうが、慣習的勢力に屈服して伝統的学習生活をしては社会の進歩に伴うことは困難である。他人の作った教科書又は教授細目によって学習する教科書学校の学習は社会の進歩に伴うことが困難で、且つ学習者の実際生活と離れるのが極めて普通の状態である。(以上はすべて木下著『学習原論』目黒書店 1923年刊)

木下竹次(1872-1946)、福井県出身。東京高等師範学校卒業以後、各地の師範学校(奈良、富山、鹿児島、京都)の教員を経る。1919年奈良女子高等師範学校教授。大正時代の「新教育」の担い手の一人として論陣を張り、「合科学習」を主張して、新教育の方向を促そうとした人でした。引用文は「合科」学習論の一部です。ここに提示している課題はぼくたちの時代に直結している大きな課題でもあります。(飛びとびに、任意の箇所引用をしておきました)
*大正・昭和期の新教育運動の指導者 奈良女高師付属小学校主事;京都女子師範学校校長。 新教育運動指導者。生年明治5年3月25日(1872年) 没年昭和21(1946)年2月14日 出生地福井県 旧姓(旧名)川崎 学歴〔年〕東京高師〔明治31年〕卒 経歴福井県下で小学校準訓導を勤めた後、東京高師を卒業、奈良師範学校付属小学校主事、富山県師範学校教諭、同付属小学校主事、鹿児島師範学校、同女子師範学校長となった。このころ独自の学習法理論を形成。その後京都女子師範学校長を経て大正8年奈良女子高等師範学校付属小学校主事となり、同校学習研究会を組織、特設学習時間を設け、低学年の大合科学習、中学年の中合科学習、高学年の小合科学習という学習法を実践、雑誌「学習研究」を通じて全国に広がり「奈良の学習」と呼ばれた。著書に「学習原理」「学習各論」「学習生活の指導原理」などがある。(二十世紀日本人名辞典)
*「各教科に含まれる教育内容を一定の中心的課程に統合し、総合的に学習させる方法。主として小学校低学年で行われる」(大辞林第三版)

ブログのこのカテゴリーでは「生活綴り方」にかかわる雑文を展開しており、それが大正時代の「新教育」運動そのものだとはいえないにしても、なにがしかの影響を互いに与え合ったのは事実だと、ぼくには思われます。いわゆる大正デモクラシー期に勃興した「新教育」運動とそこから生まれ出た「新教育」に土台を据えたいくつもの私立小学校の誕生は、さまざまな毀誉褒貶を含みながら今日まで歴史を重ねてきました。木下さんはそのような教育史のなかで一定の役割を果たした存在として、再評価されるべき人物だとぼくは考えています。
いずれ機会を設けて、彼の「理論と実践」について駄文を述べることがあるかもしれません。さらには「新教育」の担い手となったいくつもの私立小学校に関しても、不十分であることをあらかじめお断りしたうえで、触れてみたいと愚考しているのです。
(追記 以前にどこかで触れた東京高等師範学校付属小の佐々木秀一校長先生も、木下さんと同じ師範学校の卒業生でした。卒業年次は木下さんが1898年、佐々木さんは1902年でしたから、かろうじて重なって在学していた時期があったと思われます。この時期、あるいはその後には、アメリカのジョン・デューイがこの島では大いに受容されたし、二人ともデューイの直系筋にあたっていたとも言えます。なお、デューイが日本に初めてやってきたのは1919~21年でした。その間に中国にもわたっています。この時のデューイの日本に対する見方が大きく変わった根拠になる発言も残されています。大正デモクラシーがいかなる状況下で育っていったか、デューイを通して考えられそうです。
日本におけるデューイ研究の礎を築いたのが佐々木さんでしたが、木下さんの、いってみれば経験主義的な教育・学習論にもデューイの影響は濃厚に認められそうにぼくには思えます。この点に関しては、もうすこし資料等にあたって、いくばくかの新たな視点が提示できれば面白いと考えてもいます)