まず、自分に注意を払うこと

 注意を払う

 私たちは、両親や小学校の先生から「注意しなさい」(ペイ・アテンション)と言われて育つ。子供の頃より、この同じ言葉を強くあるいは優しく命じられながら、大人になっていく。やがては慣れて聞き流すようになるかもしれない。だが、人生においてこれは非常に大事なことである。なぜなら、注意を払うとは、心のエネルギーをどう使うかということであり、このエネルギーの使い方の如何が、自らをどのような自己へと育てるのか、どのような人間になることを学ぶのかを決めるからである。

 何かに一生懸命に注意を払っているとき、本気で取り組んでいるとき、私たちは、知性、感情、道徳的意識のすべてを動員している。仕事でも、遊びでも、大事な人との交わりにおいても、同じことが起きている。このとき、私たちは、行っていること自体に没頭しているので、自分のことは忘れている。それは楽しいひとときであるかもしれないが、私たちがそれを行うのは、楽しさを求めてではなく、それが広い生の文脈において自分がほんとうにしたいことだからである。つまりそれには「意味が感じられる」。自分という意識は極小になる。しかも、その目的は楽しみにひたることではない。にもかかわらず、私たちが真に幸せに感じるのは、こういうときである。(ベラー他『善い社会』既出)

ベラー氏

 不注意に注意を払う

 「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」(マルコ・八章―十八節)

 ここで用いている意味の注意は、自分から進んで、行いや態度を慎むこと。である。(同上)

 私たちは専門家や専門的意見を必要としている。…専門家の意見をどう評価するかを学ぶというのは、市民教育の基本である。・・・ともかく、専門家の意見を評価することは、物事の手始めにすぎず、結局の所、いちばんの重要事ではない。さまざまな選択の道徳的意味合いを考量することこそが肝要なのである。この点において、家庭や地域共同体のなかで注意を払うことを身につけた市民は、それを一般化して、より広い問題に適用することができる。家庭が民主主義の学校であり、学校が民主的な共同体であるとき、こうした知恵は、すでに学ばれたということである。(同上)

 この書籍からの引用はすでに別の個所で行っています。アメリカの社会学者たちがアメリカを「善い社会」にするという展望のもとに家庭や地域における「公民性・公共性」を養うための方法に関する膨大かつ精緻な理論を展開したものです。これはアメリカという「社会」のある時期、ある地域の課題として「公民・市民」を育成するためのプログラムを述べたものともとらえられます。ぼくたちの社会と決定的に異なるのは、宗教(教会)の日常生活に占める位置づけです。ぼくたちの理解が容易に届かないところでしょう。善し悪しの問題ではありません。

 また、「公共・公民」という視点がぼくたちの島では全くと言っていいほどに欠けているのもおおいに気になります。(この点についても、他のブログで愚説を少しばかり述べています)家庭も地域社会も、一足飛びに「国家」の網の目に取り込まれているともいえるからです。本日、出されるという「コロナウイルス感染拡大」問題に関する「緊急事態宣言」とかいうもの、いかにも奇妙な扱われ方をしているといえます。もっといえば、はたして「宣言」する必要があるのかとさえ、ぼくには思われます。物事には「裏」が必ずあります。(ぼくは裏読みはしないし、できないし、興味はない)

 「外出自粛」はあくまでも「自粛」=「自分から進んで、行いや態度を慎むこと」(デジタル大辞泉)で、これを他人から言われる筋はないんです。(self restrain)「お前は外出を自粛せよ」という滑稽な話はあり得ない。もしそのようにいいたいなら「外出禁止」でしょう。ロシアでは禁を犯した5人が射殺されたとネットにはありました。インドその他では警官が棍棒で叩く、道路に正座させ、お仕置きをすると。それもこれも、お上の「禁止」命令を破ったからです。この島ではあからさまな禁止や戒厳などはしないのに、必要以上に「お灸」が効いてしまう。「これはお願いです」「禁止ではありません」といいながら、その効果はお願い以上、禁止以上です。暗黙の「右へ倣え」かね。「センス」の圧力です。

 ぼくはしばしば「注意は自分にするものだ」「他者からの注意は、命令であり、文句であります」といってきました。「自分から進んで、行いや態度を慎むこと」でなければ、いつまでも、何歳になっても他人から「とやかく言われる」ままの人間になるでしょう。いままさに、「ことは生命にかかわる」から、「他人に迷惑をかける」から、強い圧力をかけてでも「強制的に自粛させる」「自粛を強いる」という、ふざけた(顛倒した)事態になるのです。

 「専門家の意見を必要としている」のは確かですが、その言い分を真に受けるためではない。黙って聞いていれば、どんな結果になるか知れたものではない。医者は「患者の生命や健康を守る」とさかんにいうが、ぼくたちはまさか信じていないでしょう。どうして、あちこちで院内感染が「大量発生」するのでしょう。理解できない(したくない)のは「東京都医師会」「厚労省」などの専門家はいまだに「感染」が疑わしい場合でも「医者にクルナ」といって恥じるところがないことです。自己否定(自殺行為)しているのに気づかない(ふりをしている)。世も末だね。「コロナは医者に」というのが本筋なのに、さ。学校の教師も専門家、賢くなりたいなら「君たちは学校にクルナ」というのでしょうか。

 「専門家の意見を評価することは、物事の手始めにすぎず、結局の所、いちばんの重要事ではない」という指摘をよく考えたいですね。真に受ければバカを見る。バカを見ても後の祭りです。最後は自分でなんとかまちがえないように判断しようとする、そのための専門家の意見です。

自分の注意によってまちがいを少なくするためで、唯々諾々と受け入れるということではないんだ。

 「宣言」を発令しても、現状と変わりはないと要人たちは口をそろえる。それなら、どうして出す必要があるのか。コロナ禍はけっして「深刻」ではない、だから好き放題していいというのではない。「深刻」を煽る輩がいるのだ。だから前にも後ろにも「油断大敵」、それは何事においても言えるのです。当たりまえに「自粛・自制」をしなければならない。慎重にわが身を守り、他者に迷惑をかけぬために「注意を自分に」払う。連日、映像・画像に出っぱなしの「善男善女」たちは他人(国民。住民)思い・情け深い人々なのではないでしょう、また別の戦略や政略で「注意してくれている」んです。さすが「立派な政治家だ」と、ぼくは口が裂けても言わない。

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。