内には立憲主義、外には帝国主義を標榜していた日本、世に「大正デモクラシー」と称され、あるいは民本主義が唱われていた時期、それが大正という時代でした。多くの師範学校出身教師たちはこぞって「新教育運動」に参画しようとしていたのでした。

上庄さんが教師になったのは大正三年、すでに彼はデューイをはじめとする「児童中心」の教育実践を試みていた。「児童の自由を尊敬しようとするには、教育者は自ら自由人でなければならぬ」というのが彼の心情となっていた。それは当時にあって、「国家の教育」「国家の教師」というくびき(規制)が勢いを増して学校を支配していたことの証明でもあったでしょう。教師の自立、教育の自由の達成、それは個々の教員の努力や情熱だけではとうてい達成できないものであった。そこに「闡明会」は生まれたのです。
「たとへ正当な主張要求も、少ない力では蹂られるから、蹂られないだけの力を為すために団結である」(「闡明」創刊号)
視学の訃を聞いた時、僕でさえ涙を感じた。けれ共それは単に視学の死を惜しむ涙ではなくて、衷心おしむことの出来ないこおとを悲しむ涙であった。(中略)
人間が人間の死をかなしみ得ないほどの悲痛がまたとあろうか。(「闡明」)
その後、上田庄三郎さんは幡多郡益野小学校(現土佐清水市)の校長になりました。二十七歳だった。赴任当時、焼失して校舎がなかった益野小学校で、彼は校舎のないままで森や野原、あるいは神社や空き地を利用して縦横無尽の活動を子どもたちと展開するのでした。

彼はそれを「益野自由学林」と称し、詳細な「益野小学校経営案」を立案します。
「全教育方針」と題して、次のような教育哲学(原理)を鮮明にします。
・学校全体にわたる教育方針は全校教師児童の総合意志によって樹立せられ、校長はこれの実現の任にあたります。
・右の方針は固定せられたものではなく、むろん、全校教師と児童とはこれが批評と改造の自由と責任とを持っております。
・校長は常に自分の教育精神を深刻堅実偉大に成長させ、自分の人格の威力を逞しくして、全校教育の清新自由な活動を生起させる淵源と自負して居なければなりません。

・どこまでも純真なる愛、どこまでも自由、そうして児童の全意欲が健かに生きてひしめく「子供の国」にしたいと云うのが理想です。(原文は仮名書き)(著作集①『大地に立つ教育』所収、国土社刊、1978年)
校長として再建運動に奔走したわけでもないのに、やがて住民からの強い要求によって校舎は新築されました。ときに、大正十三年四月でした。その際に語られた上庄校長の「謝辞」が教え子の西村政英によって書きとめられています。(西村著『魂をゆさぶる教育』)
「学校が兵営でない限り、学校が牢獄でもない限り、子ども達に最大の自由が認められ、最大の創造心を培う殿堂であらねばならない」
「 およそ子ども達の自由と創造の天地と殿堂を壊し、これに圧迫を加えようとするものは、もはや、教育というものではなく。また教育を語る資格はない。自由と創造のない処、学校というものは不必要である」
ひとりひとりの心身に深くかかわる教育は国事(国策)そのものなのでしょうか。この時代のこの国において、なお教育は私事にきわまると、ぼくは考えている。私事といえばただちにわがままで自分勝手な、と非難されそうですが、それは浅はかな言い分だとおもう。