うその世界から来た私が

 十一年私の精励した教員社会というものは、溌剌たるライフに遠ざかること、土方社会、馬喰社会以下であると断言したところで、あながち私の悪口雑言癖だと、一笑に付するには当るまい。否それは正しく、私の誠実と真面目の実証なのだ。それが私の生まれつきででもあるかの如くに、私はそこで間断なき反感と憎悪の中にしかめつらばかりしていなければならなかった。世に拗ねてばかりいなければならなかった。これ以上いたら恐らく私は、到底、再生復活の見込みのない迄に硬化した木人参になってしまうところだった。(中略)

 私の啄木はうたう。

  こころよく我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なんと思ふ

          (上田庄三郎「土を離れて」『大地に立つ教育』所収、1938年) 

 上田庄三郎(1894~1958)。高知県土佐清水市出身。小砂丘忠義とともに高知で教師生活を送っている中で、いわば県教育界から追放されるがごとくに、上京し、新たな視野を開いた人でした。いまでは、二人ともに忘れられた日本人です。彼らは教師の本領を発揮することがどんなに権力と衝突し、その抑圧を受けるか、その見本のような人物でした。

  貧乏の家に生まれて店奉公 夜な夜な泣いた十六の頃  (庄)

 明治四十三年に高知師範学校に入学。大正三年四月、母校の岬小学校の訓導に赴任。三年後に下川口小学校に配転される。この間に、着々と県視学の間に「上庄、度し難し」の素地が作られていきました。

 私が君等から「先生々々」と呼ばわるようになったのは、去年(大正九年)の四月か らの事だ。それまでは全く知らぬ人間同士であった。初めて君等に逢った時はいやに私が偉そうに勿体ぶっていたねえ。でも君等はすぐに信じきったように知らぬ私を「先生」 と呼んでくれた。そこではじめて君等を生徒だと感ずるようになった私だった。

  是から一年余りの間に、私は君等に何を教えることが出来ただろう。私の心はそれを耻(はずか)しがっている。うその世界から来た私が、君等にうそを教えはしなかったとどうして断言することができよう。うそばかり教えていたのだ。私は君らにうそを教えた。そのかわり君らは私にほんとうを教えてくれた。何という恐ろしい代償であろう。うそで曇っていた私の心が君らの神さまのようなほんとうの心に清められて、ようやくほんとうに甦ろうとしているのだ。今私の心はまるはだかになってほんとうのすがたを、君らの前にあらわしたさでいっぱいだ。それで私はこの誓言を書く。(上田庄三郎「土の子供と語る」『大地に立つ教育』上田庄三郎著作集①所収、国土社刊。1978年)

  「私が初めてこの学校へ来たとき私は君らの前に立たせて校長先生が言ったっけ」

上田に師事した西村正英著「青年教師上田庄三郎」

「ここに見えられるのは上田先生と云われます。上田先生。…お生地は三崎で六年前にK市の師範学校を優等で卒業せられましてから、郷里の三崎に三年下川口に三年と郡下有数の大きな学校ばかりおいでになりました。私はいつかああいう立派な先生をお迎えしたいと始終思っておりました。今多年の希望がはたされまして非常に悦ばしく思っております。皆さんも…」

   この驚くべき虚の挨拶にびっくりした私は何を言ってよいかわからなかった。

 「只今校長先生の云われたのはみんな虚です。ああして私を偉そうに思わせようと言っとるんです。あれは大人がよくするお上手というものです。君らはどんなことがあっても心にもない嘘をいうものではありません。嘘は人間を傷つけるものです。今私の魂はあきらかに傷つけられました。」(同上)

 子どもたちの前で「校長の嘘っぱち」を暴露したものだから、狸校長はジロッと上庄さんを睨んだそうです。じっさいのところ、校長は彼が赴任してくるのを望まなかった。「あんな理屈をいうのがくると困るな」というのだった。

 上田さんはただちに教師の権利を守るために「闡明会(せんめいかい)」なる団体を結成します。

 「放課後の職員室に居残って、「闡明」の原稿を書き、手を真黒にして印刷することは、歓ばしい労働である。それは誕生の歓喜であり、創生の法悦である。

  闡明は営利を目的とする内職ではない。勿論危険思想の掃き溜めでもない。僕等二十有余の同人が、内的に外的に加えられたかも知れない児戯的迫害によって、新生命の、止むに止まれぬ顕現である。自我の向上と会の発育とが握手する処とに新味を有する「闡明会」の同人が、会に対する、同時に自我に対する最高の奉仕である」(「闡明」第一号、大正九年六月)(大正九年三月に同人の多くが「不意転(意に添わぬ、強いられた転任)」にあっている)(つづく)

*上田庄三郎氏の文章中には、今では明らかな「差別表現」と言うべきものが認められます。初読時には驚きを禁じ得なかったし、同時に「上庄」にしてと落胆したのでした。引用に際しては「訂正」すべきだったかもしれませんが、当時の状況や彼の仕事(実践)の性質等を考えそのままにしたことを断っておきます。