一人の巨人がいた
小砂丘忠義(ささおか・ただよし)。この人もまた、いまでは「忘れられた日本人」です。高知県の出身。生年は1897(明治三〇)年。後年、「生活綴方の父」と謳われた人物です。大正二年、高知師範学校に入学。

「一体私はうけてきた師範教育をありがたいとはそんなに思わぬ代わりに全然之を牢獄の強制作業だったとも思わぬ。ただ時がまだ、官僚気分のぬけきらぬ、そして、自然主義前派の馬鹿偶像礼拝の気の濃い時だったので、今考えて、まだまだ修業の足りない教師のいたことは事実である」(『私の綴方生活』)
大正六年四月にみずからの出身校であった杉尋常高等小学校に赴任します。たった一学期間いただけで、短期現役制度*により現役入隊(六週間)することになりました。
*兵役法に定められた師範学校卒業者に対する兵役上の特典。1889年の徴兵令大改正ののち,師範学校の卒業証書を有する満28歳以下の官公立小学校教員は6週間現役に服したのちただちに国民兵役に編入する6週間現役兵制が創設された。当時一般の兵役が現役3年,予備役4年3ヵ月,後備役5年の服役後に国民兵役に編入される制であったことにくらべると大変な特典であった。この制は1918年に1年現役兵に改められた。27年の兵役法により,さらに短期現役兵の制に改められた。

「イヤナ軍隊。殺風景ナ軍隊。軍隊ハ非常ニ殺風景ナリ。今夕フットカウ感ジタ。上官ハ大声ニカミツク様ニ叱リツケツツ呼バハリタリ。喧タリ。戦友何レモ無造作ニ大声ヲタテツツアリ。価値ナキモ馬鹿言ヲ繰リ返セルナリ。ソレデ平気ナリ。聞キ居ル人モ平気ナリ」(「軍隊日誌」)
かならず上官が検閲することになっていた「日誌」にこのように書くのです。六ヶ月のあいだそれは一貫していました。中尉からは「日誌ハ最劣等タルヲ免レズ」と酷評されたのですが、時代がよかったのかいっさいのお咎めはなかった。「作字文章共ニ不可 然レドモ永久重宝トナスベシ」と書いたのは連隊長だった。これはどういうことだったのか。かれはいさんで学校にもどります。
不寝番立ちてたまたま持つチョーク 思い出さるる教え子どもら
欠点だらけの人間の仕事である
小砂丘さんの言葉をつづけよう。
《謝っても謝りきれぬ大きな罪悪を愛する子どもの上に毎日毎日皮をはがしてまでうちつけているかもしれないとは何という残酷な矛盾の多い、情けないことであろう。
デリケートな感能に生きる子ども達に、涸れはてた荒びぬいた、僻みきった、乾涸した感情を以て大人の吾々がはたらきかけるのが教育だと考えたとき天下幾万ののびゆくものが艾除(がいじょ)されていることを思う時、何として、吾人は平気で仕事ができよう筈がない。(中略)

自己の行為に対してあくまで責任をもち得るだけに深い生を続けて欲しい。教育精神なるものもここから生まれてこよう》(『極北』二号、1921年2月)
欠点だらけの人間の仕事、それが教育者の実践だと小砂丘さんは言います。万全(完全)を期すことは望むべくもないけど、「期すべからざる万全を目あてに進む所に生の意義を認めるものである」ともいいます。教育を考えようとする人間がみずからのみにくさを自分にかくさない、その程度には美しくありたいと願った人間の肺腑の言だと読んでみるのです。
彼は教師になった当初から教育雑誌を作ります。その面では大きな才能をもっていたといえる。「極北」もその一つです。そこに彼は「校長論」を展開します。大正十年頃のことでした。その要点は以下のとおりです。
「所詮は校長その人に眼ざめて貰いたいのだ。そして今少し教育精神を根強いところから樹立してかかってほしい。師範学校を卒業する迄にお習いした人の道なるものは私にとってはこの上ないあやかしいものだった。そして私は一切合切根本からそれを放り捨ててしまった。そしてそれからこの『極北』が生まれ、これから他に何かが生まれる筈である」 「平素部下にはよいが一度その筋との交渉に及べばグニャリとめげこむ校長もある。自己吹聴のために部下並びに生徒を見せ物扱いする校長もある。きついことも言わぬが、いざと言う段取りになって鎌の切れぬ校長もある。わけはわからずとも其の地方の重鎮とて無闇に何のかのと勿体をつけて議論する校長もある。
何れ挙げ来れば無数の種類があるだろう。小砂丘式に一括すれば、みんな何かにあやつられている人形である。自己ない自己である」
あやつられ人形はいたるところにいます。だから校長もそうであっていいのだとはいわない。じゃあ、どうするか。小砂丘さんは校長職に期待したのではなかった。ひとりの人間に期待したのだ。それにしても「自己のない自己」がのさばる(というのも変な表現だが)という風潮に今昔のちがいはなさそうです。

出る杭は打たれる
「小砂丘などのいうことは他人の悪口ばかしで三文の値打もないと附属の一先生がいっている。しかしそれが何だろう。値打があるかないか、それはその先生などの頭で考へられる性質のものではなく、もっと高いものである。私は云うべきことをいい、聞くべきことをきいてゆく。世間がどう云ったってよいことだ」
「私を教育界の危険人物、不良児だとして罵る者も沢山ある。それが何です。つまり私がいることも一つの事実だし、その人々の云うこともすでに一分一秒過去になりつつある出来事です」(「雪隠哲学」)
出る杭は打たれる。小砂丘さんは師範時代から打たれつづけていたといっていい。「しかしそれが何だろう」という姿勢は生涯にわたって失わなかった。なぜか。いわずと知れていることです。腐りきった教育界を根底から崩そうとしたからです。
かれは足かけ九年の教師生活中に学校を七回も変わりました。変えられたというのが本当でしょう。あまりにも器量が大きかったからで、その器量を嫌うばかりで、使いこなす校長や視学(教育委員会幹部」がいなかった。
大正十二年三月、今回はみずからの意向で転任します。妻の父親が病気になったので、その看病の都合を考えてのことでした。その際、視学との間で「契約」を交わします。
1、雑誌「極北」をやめること(教育界のゴミ掃除のための雑誌でした)
2、吉良、中島(二人は友人だった)とは絶交すること
3、頭髪をのばさないこと
4、中折帽をかぶること
このような「契約」をどうみればいいのか。同時期に師範学校に在学していた妻の妹に対して学校当局は「小砂丘たちとはつきあうな」と注意したそうです。

(東宝・1938年)
さて、小砂丘と義理の妹は、それぞれの「契約」「注意」に対してどう出たでしょうか。
中休みのつもりで、小砂丘忠義さんの俳句をいくつかを以下に。
大芭蕉悠然と風に誇り鳴る 破れ裂けし芭蕉葉にふり注ぐ雨
涸れ沼に崩折れし葉あり大芭蕉 巨葉鳴らし風呑まんずと大芭蕉
大芭蕉葉鳴りゆたかに風をのむ
いまではまったく忘却の彼方の人となった感があります。これは当然のことで、去る者は日々に疎し、という鉄則のなせる業でもあります。だが、それゆえに、忘れようとして忘れられないという思いに駆られる人がいるのもまた事実です。小砂丘忠義さんに思いをはせる人がいろいろなところにいるのは当然です。
戦後のある時期までさかんに支持された「生活綴り方教育」も、すでに島社会の教室から姿を消してしまいました。断定するのはまちいかもしれませんが、まったく教育の方法としては昔日の姿や形が消えているのは事実でしょう。それゆえに、このような独り言じみた駄文の片隅にでも記憶(記録)を残しておく酔狂も許されていいとぼくは一人で合点するのです。どこまで駄文がつづくか、まことにあやしいかぎりですが、急ぐ旅でもありませんので、自分の歩幅と歩調でゆっくりと、あちこち寄り道しながら歩こうという魂胆ですね。