
《青春期のはじめ頃、わたしがいちばん印象深く感銘したのは、太宰治の「家庭の幸福は諸悪のもと」という言葉だった。時はあたかも敗戦直後の焼け跡の混乱期で、わたし自身はいわば徴用動員の工科系学生くずれといった身心のデカダンス状態にあった。(中略) わたしは太宰治の逆説的でもあり、自己劇化の優れた表現でもある「家庭の幸福は諸悪のもと」に感銘しながらも、心のどこかに若干の異和感も覚えていた。この異和感の根拠がどこからくるのか、当時はよくわからなかったが、老年期の現在ではとてもよくわかる気がする。実感だけに沿っていっておけば、「家族」のつくっている小集団である「家庭」にとって、幸福か不幸かという倫理的な課題は第一義の意味をもたないからだ。不幸はどこからでもやってくるし、幸福もまたどこからでもやってくる》(吉本隆明「家庭論の場所」『家族のゆくえ』所収。光文社、2006年)

家族の問題。どんなひとも「家族」とは無縁で存在できないという素朴な原点を忘れないようにしたい。その家族問題について吉本さんが八十になって悟るところがあったとして、一冊の語り下ろしを公刊した。その根拠になったのが太宰治の家族を負の側面から描いた小説だった。いわれてみればたしかにそうで、太宰の家族論はおおきく偏光した風景にいろどられているようです。
それはともかく、家族問題を考える視点として、吉本さんはふたつをあげておられます。
そのひとつは個人に関する点です。家族を構成する個々人の相関関係(「対幻想」なることばで表現できるもの)という側面です。家族モデルということがしばしばいわれますが、モデルを示してなにをいおうとするのか。わたしにはよく理解できないところです。ひとつの家族だけでもつねに変貌しつつあるのですから、それを固定してとらえたつもりになったとして、その実態はかくされてしまうからです。形はいつでも変形し、壊されるものです。

《…家族もまた、親和と反撥、幸と不幸にあざなわれた巨大な謎だとおもう。家族問題だけに専念できたとしたら、それだけで生涯を費やす大事業になることは疑いない。あなどってはならないとおもう。生理的・性(心理)的なことではなかろうか》
もうひとつは、社会や国家に関する問題(「共同幻想」ということばで表される)です。
この点にかかわって、こんにち社会的な関心をもたれているのは結婚しない人びとの増加と少子化という問題です。
《象徴的にいえば、女の人が男をバカにするようになったことだ。つまり「男女同権」 という旗を高々と掲げて―「結婚して出産するなんてわずらわしい」「結婚なんかしなくても経済的に自立できればそれでいいんだ」という考え方が蔓延してきたことである。 「出産拒否」と「晩婚化」といいかえることができる》
このような指摘はさらに加速度をはやめて坂道を下っているのか、上っているのか。

家族の問題をかんがえようとするとき、どのような視点からとらえるか。多様であるようにみえても、じつはきわめて単純なことがらなのかもしれません。他人の始まりが「家族」だし、家族の始まりは「他人の関係」なんだと言ってしまえば身もふたもない話ですが、「家族の関係」に対立するような「他人の関係」、さらにはその他「ハイブリッドな関係」という視点も欠かせない問題として、ぼくは考えてみたいんですね。
時代がどんなに変わろうと、それは人間が生活する環境にあらわれる表面上の変化であって、個々人の心理や意識の深部(内面)は変わらないというより、変えられないのだといえるかもしれない。とはいっても、見えないところでどんなことが生じているのか。
親殺しや子殺しの原因、あるいは社会的な背景にはさまざまな要素がからんでおり、いちがいにいうことは適切ではありません。でも、すくなくとも「教育」「学校」「学歴」というものがそれぞれに対して大きな圧力となっていることは否定できないと思われます。

「学歴尊重」という社会現象(問題)がいまだに人心をつかんではなさないということになるのでしょうか。家族や家庭という「育つ―育てる」という場のあり方がそのまま教育(学校)問題に直結しているという点では共通しているのではないか。教育問題が家庭という小さな集団を直撃しているのです。
そして学校においても「たがいに支えあう」という根本の働き(関係)が失われてしまえば、それはひたすら「学力・成績」や教師の評価を求めるだけの闘争の場とならざるをえない。また、そのような競技場になるためにひたすら猛進してきたのも事実ではなかったか。(つづく)