子どもの声に聞く

 小さい者がいろいろの大きな問題を提出いたします。夕方などにわずかの広場に集まって「かーごめかごめ籠の中の鳥は」と同音に唱えているのを聞きますと、腹の底から国文の先生たちを侮る心が起こります。こんな目の前の、これほど万人に共通なる文芸が、いまなおそのよって来たる所を語ることあたわず、かろうじていわけない者の力によって、忘却の厄からまぬかれているのです。何かというと、「児戯に類す」などと、自分の知らぬ物からは回避したがる大人物が、かえってさまざまの根無し草の種を蒔くのに反し、いまだ耕されざる自然の野には、人に由緒のない何物も成長せぬという道理を、かつて立ちどまって考えてみた者がありましたろうか。(柳田国男『小さき者の声』)

 かーごめ かごめ かーごのなかのとーりは… 

 今はもうどこにも見られなくなったかと思われますが、「かごめ、かごめ」という子どもの遊びがありました。みなさんもやられましたか。見たことも聞いたこともありませんか。

 「一人のこどもに目を閉じさせて、丸い輪の真中にしゃがませます。手をつないだ大ぜいが、その周囲をきりきりと回って、はやしことばの終わるとともに不意に静止して、『うしろの正面だーれ』と問うのです。その答の的中したときは、名ざされた子が次の鬼となり、同じ動作をくり返すことになっていますが、もとはこの輪を作っているこどもの中の年かさの者が、他にもいろいろの問答をしたのではないかと思います」(同上) 

 この「かごめかごめ」という児童の遊戯をみて、なにを感じるか。あるいは、そこでどのようなことを考えることができるか。柳田さんはそこから、はるかな昔のまじめな大人たちの神事(信心)を聞き取ったのでした。それは「遊戯の意味(歴史)」を尋ねることであると同時に、「子どもとはなにものか?」という疑問に直面することでもあるはずです。子どもとは、単に幼い、半人前の存在ではない。大人になるための準備段階に生きているものではないというとらえ方は、この島では当たり前に見られました。いかにも不可思議な存在、それが、子どもに対する社会(大人)の視線であったといってもかまわないと思います。「七つ前は神のうち」「七つまでは神のうち」などといいました。

 そのことを、柳田国男という人は「かごめかごめ」という遊戯をとおして考えようとしたんですね。

 「若い男女の多く雇われた大農の家の台所で、冬の夜長の慰みに、あるいはまたなにか寄合いの余興などに、仲間の中でいちばん朴直なる一人を選定して真中にすわらせ、これを取り囲んで他の一同が唱え言をする。多くは神仏の名をくり返し、また簡単な文言もあります。こんな手軽な方法でも、その真中の一人の若者には刺激でありまして、二、三十分間も単調な詞(ことば)をくり返すうちに、いわゆる催眠状態にはいってしまうのです。そうすると最初のうちは、『うん』とか『いや』とか一言で答えられることばかりを尋ねますが、後にはいちだんと変になっていろいろのことをしゃべるそうです。後しばらく寝かせておくと、いつの間にかもとのとおりに復すると申します」(同上)

 こんな報告もあります。山形県の三面(みおもて)という村で行われていた神事です。

 そこでは村のために必要な場合には「神降ろし」をするそうで、その様式は「かごめかごめ」とまったく同じであったというのです。「神おろし」とは「神の託宣を聞くために、巫女 (みこ) がわが身に神霊を乗り移らせること」(デジタル大辞泉)です。そして、いろいろなこと(稲の豊作・不作や吉凶など)を占ったというのです。いまではすっかり「子どもの声」は聞こえなくなりました。小さな人たちは、どこでどうしているんでしょうね。

〇かごめ‐かごめ【籠目籠目】児童の遊戯の一。しゃがんで目をふさいだ一人を籠の中の鳥に擬し、周囲を他の数人が手をつないで歌いながらまわり、歌の終ったとき、中の者に背後の人の名をあてさせ、あてられた者が代って中にうずくまる。細取(コマドリ)。(広辞苑)

〇こ‐とり【子捕り・子取り】①子供の遊戯の一。一人は鬼、一人は親、他はすべて子となって順々に親の後ろにつかまり、鬼が最尾の子を捕えれば、代って鬼となる。子をとろ子とろ。(広辞苑)

投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)