授業によっていろいろな経験を子どもたちはすることができます。その中核は「学ぶ」ということですが、それ以上に仲間や教師の性格やものの見方を確認する機会にもなるでしょう。そのような交わりを通じて、自分の性格や自分に足りないところを知ることもできます。その意味では、授業と、それが実践される教室には多くの可能性がある。

授業の可能性とは子どもの可能性といいかえられます。ひとりとして同じものをもたない子ども、そのような子どもに教師がていねいにむかいあえば、教室の雰囲気はおのずからむつまじいものとなるはずです。長い間、このような教室の風景を夢見てきたと、ぼくは白状します。見果てぬ夢、そういう以外になさそうな、まるで夢そのものです。

なにかを学ぶというのは、つまるところ自分を発見することです。今まで気づかなかった自分をさまざまな機会において知ることだとおもう。そのための練習こそが学校でなされてほしい授業だと、つよくいってみたい。どんな失敗しても、かならずとりかえしがつくことを経験する場、それが教室です。そのような貴重な経験を重ねるための練習が授業なのだといいたい。
それはまた、ある物事について自分流にかんがえ、自分流に判断する、その判断がせまく偏ったものにならないようにするための訓練です。紋切り型の物言いや、みんないっしょといった「かたまりの思想」に毒されない柔軟な発想や把握ができるように自分を鍛える機会です。いうならば、この自分にも精神の自由があるということを自分で経験するのが教室でおこなわれる授業であり、その可能性を開くのが教師の仕事ではないのかとおもうのです。
勉強 ー この言葉にはどこかかたくるしい、おさえつけられるような気味がありますね―、それはあたかも山登りに似ていると、ぼくはかんがえています。自分の足で、自分の足だけで確実に頂上を目ざさなければ、一歩も前に進まない。どんなに高い山に登ったところで、世の中の利益にはならないし、とりたてて他人から評価されることもなさそうです。だからこそ、山登りはいいのだと経験から学びました。
誉められるため、自慢するために山に登る人がいるとはおもえません。年齢・学歴・性別・職業・国籍などは一切不問です。自分から登ろうとする人にしか喜びも苦しみも与えられない。自分から、というところが大切ではないですか。勉強、学習といってもいいでしょう、それは自分の足で、自分の意欲で登ろうとする山登りとそっくりだとぼくはおもいます。

もうひとつ、山登りにはいいところがあります。山はいつでもそこにあるということです。自分が挑戦する相手はけっして動かない。登ろうとしていってみたら、その山がなかったということはないのです。だから、それに対して心構えをするばかりなんですね。去年はあったけれども、今年は消えてなくなっていたらどうでしょうか。せっかくその気になっていたのに、なんだということになるでしょう。(当節の環境破壊のすごさをみれば、あながちそんなことはぜったいにありえないとはいえなさそうですが)ピアノも一つの「山」ですね。「算数」もてこでも動かない「山」、そこに自力で登る、あるいはだれかに導かれて登る。
授業もそれと同じで、それに対してこころを準備するのです。学ぶというのはなにかに挑戦するという雰囲気があります。じゅうぶんに気持ちを集中させてかからないと、そこから得られるものはなにもないということになりがちです。その反対に、注意力が足りなければつまづく、転ぶ、場合によっては落伍するということにもなりかねない。いかにも山登りに似ていませんか。
ぼくは勉強もこうあって欲しいとねがっています。人に認められよう、世間から認められたいいう(その実、そんなことは滅多にないし、たいしたことではない)あさましい動機から始められる勉強のなんと多いことか。勉強しているのか、人に誉められようとしているのか、ご当人にも分からないのじゃないですか。まことに厭な話です。自分の足で山に登るように、自分の頭と身体で物事を考えること。それが人間の自由ということだといえるでしょう。
教育とは自由の実践だ、とある人はいいましたが、現実はその逆で、教育を受ければ受けるほど不自由な人間になる(させられる)のではないかとさえぼくにはおもわれます。まるで強制されて山に登るようなもので、せっかくの経験が台無しになってしまいます。

〈勉強〉という語は、先にも触れたように、ちょっと堅苦しい感じがつきまといます。むりじいされるような気がしますね。店でものを買うときに、「もう少し勉強してよ」ということがありますが、それは値段をまけてくれませんかという意味で使われます。店に対して無理してくれという気味があります。かりにお店の人が「勉強するよ」といえば、利益を度外視してサービスするということでしょう。それほどに、勉強というのはする方もさせられる方も、大なり小なり無理がありそうです。
それに比べて、学ぶ(学習)というのは、相手がどうであるというよりは、自分の意志で学ぶのだという気分がこめられているようにおもわれます。たんに言葉づかいの問題ではなさそうで、「勉強する」と「学習する」ではそこにはっきりしたニュアンスのちがいがあるようです。だから「勉強」という言葉を教室から追放したらどうかと提案してみたい気がします。教師も子どももずいぶん勝手がちがうことになるんじゃありませんか。わたしたちは必要以上に言葉にとらわれているようです。
もっとすすめたいのは「プレイ(play)」という語です。Play Station とまちがえられそうですが、「遊ぶ」というのです。それから学ぶことはたくさんありますし、「遊ぶ」のいいところはかならず「自分の心身を用いておこなう」という点です。ピアノを弾くとはピアノに関する本を読むのではなく、自分でじっさいに弾くことを指します。「国語」でも「算数」でも自分でやるからこそ、それが学んだ事柄以上に「経験」となって身につくのではないでしょうか。「経験する」は「遊ぶ」ですよ。
「遊興」などというとまるで忌み嫌われそうですが、「遊戯」は「遊化」と同じで、ゆけ(ゆげ)と読ませていました。「 仏語。心にまかせて自由自在に振る舞うこと。遊化 (ゆけ) 」(デジタル大辞泉)とあります。ぼくが言いたいのはこの部分です。自由に自在にふるまうときに、ぼくたちは意志的(情念からの解放状態)であるはずです。遊び心、それは余裕であり、ゆとりですね。鉢巻をしてこぶしを握って「勉強」するなんて。少し意味は異なりそうですが、ぼくは「遊学」などという言葉をここで使いたい気がするのです。

「遊びをせんとや生まれけむ 戯(たはぶ)れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそゆるがるれ」(「梁塵秘抄」)はいくつもの異説におおわれていますが、率直に「子ども」の本性を讃えたものとぼくは読む。
「要するに、信念からいっても経験からいっても、わたしは、もしわれわれが単純に賢明に生きるならば、この地上でわが身をすごすことは、苦しみではなくて楽しみであると信じるのである。より単純な民族がそれによってくらしを立てていた仕事がより複雑な文化をもつ民族にとっても今なお娯楽としてのこっているように」(ソロー)