《教育でいちばん大事なのは、子どもたちの身になってやることだと思います。これは口でいうのはやさしいけれど、おとなが子どもたちの身になるということはなかなかむずかしいことです。かつては子どもであったけれども、子どものころのことは忘れてしまっているからです。
いまの中学生の身になってみたらどうか。たとえば、内申書制度であります。いま、どこでもされていると思いますが、高校入試のときに使われる内申書制度くらい悪いものはないと私は考えます。中学にはいったときから、あらゆることが点数に換算されるのです。これは子どもにとってはやりきれないだろうと思うのです。息ぬきができないのです。このようにされると、ほんとうに自分はだめなんだと思いこむようになるのは当然でしょう》(遠山啓「競争と遺伝を優先する教育を超える」)
クジ引き(抽選)の効用

数学者であり数学教育の実践家でもあった遠山啓(1909~1979)さんは、入学試験を廃止してクジ引きにしたらいいとさかんにいわれた。入学試験の理由は志願者が多くで収容しきれないからであって、大人社会では「入学試験」に類することは行われていません。たとえば公営住宅や民間マンションにたくさんの希望者があったとき、ほとんどの場合はクジ引き(抽選)です。どこかの不動産屋は購入者を選ぶのに「入居試験」をやったなんて聞いたことがない。それはやるのが面倒だからでもなければ、やれない事情があるからでもないでしょう。単純に、やる必要がないからです。(大方は終わってしまったと思われる入学試験。この問題になると、ぼくはいつも遠山さんの提案を思い出したり、あちこちで話したり。上から順番に合格を決めないで、下から真ん中からではどうか、と提案したことも記憶にあります)
じゃあ、入学試験はやる必要があるのか。ただちに「はい、あります」と答えていいのかどうか、ぼくにはわからない。なぜなら、こんにち多くの学校(小・中・高・大)ではこれまでやっていた入学試験を実施しないところが増えてきたからです。どうしてか。定員に満たないからです。それなら、いままでは定員の何倍もの志願者が集まっていたので、ふるい分けのために試験をやっていたのかといえば、けっしてそうじゃなかったと思われます。たんにそれまでやってきたから、惰性で行っていたというのが実情に近い。競争率1.1倍とか1.05倍で、なんで入試をしなければならないのですか。

《たとえば、これは、私は長いあいだ大学にいて、ずいぶん入学試験をやってきて思ったのですが、上からずうっと点数で取っていくわけですが、そうすると、中あたりは同点が十人、二十人もいるのです。これを区別することはできないからぜんぶ入れるか、ぜんぶ落とすかというかたちで処理するので、最初に発表した収容人数と少しちがう人数になるわけです。私は、この境目の点数の一点、二点なんて、なんの意味もないと思うのです。千点以上のなかでの一点なんていうのは偶然のものです。だから、私はその境目の前後十点くらいは受験生のあいだでクジを引いたらよいと思う》(遠山・同上)
《おとなの世界にはマグレというのがたくさんあります。宝クジもあるし、公営住宅の抽選もクジが使われているし、ギャンブルもクジであるし、大人はクジを利用しているのに、子どもにはなぜクジを利用させないのか》(同上)
試験でなにがわかるんですか

入試にクジを採用する、その効用はクジに落ちても致命的な結果にはならないという点です。公営住宅入居の抽選に外れて、自己を否定したり、自殺する人はいないと思います、たぶん。また、千点満点や五百点満点のなかでの一点や二点、あるいは五点や十点のちがい(開き)になにかの意味があるとはとても考えられない。つまりは五十歩百歩じゃないですか。今の入試や試験制度では、この意味のありそうにない微差(誤差)(ゴミ)に決定的な意義を認めてしまうという看過できない愚を犯しているといわざるをえない。
遠山さんの意見をもう少し聞きます。彼は「点眼鏡」という言葉を作りました。点数や点数で表された評価でもって他人を判断するということであり、点数という眼鏡で人を見るという意味でした。その点数で表されるテストについて彼は述べています。
テストの性格
①まえもって出題範囲が決められている ②答案を書く時間が決まっている
③満点が決まっている ④採点は減点式でおこなう ⑤正解は一つで教師が決める(これは駄文の筆者が追加)
このような枠組みでほとんどのテストがおこなわれます。このような性格をもった試験は「なんのために」採用されるのでしょうか。惰性で、といいたいのですが、さて。

《そうすると、こういうテストでいい点数を取るには、狭い範囲でものを考える力、早く答をだす力、それからミスをしない力が必要で、こういう力が試されているにすぎないのです。だから、いまの優等生というのは、こういう三つの条件にかなった子どもであるのです》(同上)

だれもがなりたいと思うとはかぎらない「優等生」の条件がこれ。遠山啓さんがこの文章を発表されたのはいまからおよそ四十五年も前(正確には76年刊)のことでした。この四十五年の間に、学校や社会で「こんな愚かしいことが教育だなんて、恥ずかしい」と、どんどんいい方向に変えようとしたか。残念だけど、「優等生」に自分もなりたいと錯覚させられた「ガンバル人間」を懸命になって生みだしてきたんじゃないか。家庭も学校も政治も経済も。つまり島全体で。いかにも愚かしいことでした。
そして、全員がなれるわけではない「優等生」(いろんな意味で)によって、この島はめちゃくちゃにされたんじゃないですか。国や地方の借金(「優等生」が食いつぶしたんです)の合計は天文学的数字で、当たり前の感覚の持ち主なら気絶するにちがいない。営々と何十年も払いつづけてきて受給資格を得たとたんに、年金制度は破綻確実になった。いまなお「食いつぶし」は続いています。「国」も「地方」も根ぐされを起こしている、最大の理由は「シロアリ」ならぬ「クロアリ」ですね。その多くは「大学出のクロアリ」だ。(頭が黒くなくなった「クロアリ」もいます)

この島以外でも、気の利いた人たちはこんな愚行からは外れようとしてきたのですが、ひるがえって、ぼくたちの「島」はどうか。そろそろ、「優等生」生産ラインから降りようとする、別の種類の学校を構想し作りたい、そんな奇特な人が少なくないようです。もちろん「優等生」をこれまでどおり作ろうとする学校の存在を否定しない。ただ、それは好みの問題であってほしい。ぼくは「優等生」生産学校はご免です。「学校」 にこだわらないが、いろんな種類の学校みたいな空間があればいいし、あったらなあと願っています。(そんな学校が、この島にもあった、いまもあります)世間が狭いぼくのことですから、数えられないほどあるのでしょう。ぼくはほんの数校しか知らないのですが、いずれゆっくりと、そのような「奇特な学校」「化石(fossil」のような学校」について雑談をしてみたいと、以前から愚考しているのです。
遠山啓さんについては、いつかもう少しお話をしたいと思います。「水道方式」をはじめ、数学(算数)教育をはじめ、たくさんの教育実践に関わられました。(「劣等生」のおかげで「優等生」がいる)