谷川 鶴見さんが、ソローのことばを引いてらっしゃいましたね。「人間はひまがあって、そのひまをたのしむことのできる生活をするべきだ」というふうな。そういう生活ができれば、おそらく理想なんだけど、現実にはそれを許さないものがあるから、なかなかむずかしい。それとも、そういう生活をあくまでも主張することで切り開いていけるような状況があるのか。それがよくわからない。どこまでがエゴイズムで、どこまでがエゴイズムじゃないのか、その境目がとってもあいまいなんですよ。

鶴見 しっかりしたエゴに支えられない正義の運動というか、フロイトで言えばエゴに支えられない超自我、それは簡単にかつ短時日で崩れると思う。超自我の命令を支える力をもつエゴがなきゃ、うまくいくはずないと思いますね。そこを全部ほっぽって、社会科学の名をかりて超自我だけを強化してうわーっと圧伏すると、学生のうちは通用しても大学を出れば長つづきしない。しっかりしたエゴをつくらなきゃだめだと思うな。

ところが、日本では競争本位の受験勉強ばかりさせるから、小学校から中学校、高等学校と、エゴをつくることができない。逆にエゴをどんどんそぎおとしてしまう。受験勉強をとおして従順な人間をつくっていくわけでしょう、一種の思想教育ですよ。それが大学へ行くと、学生運動の言動を押しつけられる、あるいは、教授から専門用語を押しつけられるから、それに同化して、超自我になってしまう。会社に入ってからエゴに目覚めて、超自我を脱ぎ捨てることができれば、しめたものだ。なぜなら、エゴがつよくなれば、そのエゴが自分を自然に抑制することを知ると思うんです。だから、子どものときからエゴを育てることがたいせつだと思いますね。エゴがつよく育てば、あらゆる欲望を無制限に伸ばそうなんてことにならないですよ。
谷川 ならないですね。
(「世界の偽善者よ、団結せよ」鶴見俊輔座談『学ぶとは何だろうか』所収。晶文社刊、1996年)
お二人が対談をされたのは七六年ですから、もう四十五年前になります。学校教育において子どもたちのエゴをめぐる状況はどのようになっているのか。恐ろしいことになってるんじゃないですか。
外からの「規制」力とはちがう、自分を制御する要素を持つとされる「超自我」(スーパーエゴ)は今日ではほとんど問題にされません。その意味は、上手に自制心が働く子どもたちが生まれている(育っている)からというのではなく、はんたいに「自制心」は彼や彼女の内部にあるというよりは、それを越えた外的な存在が自制心の代用を果たすような状況になったからだと思われます。「いうことを聞かないと、おまわりさんに言うよ」「先生に言いつけちゃうぞ」という具合に、おまわりさんや教師から始まって、お上というか権力者なんかの意向に沿う(今風に言えば、忖度ですかな)、逆に言えば、自分よりも強いとされるものに背かないような、まことにふがいないいい子がつくられているのではないか。

「朝寝坊をする権利」などといえば、たちまち警察官が飛んでくるような雰囲気があると思うんですね。「今日はちょっと気分が重いから、学校休んじゃうね」「ああいいよ」というくらいの親なら、子どもも安心というか安全なんだけど、「学校を休む子は悪い子だ」とかなんとか、それこそ別種の「超自我」になり代わった正義感で子どもを攻めるんだからたまったものじゃないですね。理づめ(理屈)というけれども、それは一種の暴力ではないでしょうか。じつに息苦しいものでしょうね。
*精神分析の用語。パーソナリティを構成する3つの精神機能の一つ。快楽追求的なイド (エス) と対立して道徳的禁止的役割をになうもの。5~6歳頃,両親の懲罰が内在化して,みずから自分を禁止するようになることと,その後の両親その他の価値観への同一視を通じて形成される。良心に近いがより無意識的に働くとされる。同様に自我理想も良心に近いが,超自我とは反して積極的側面をもつ。(ブリタニカ国際大百科事典)
「私の唯一の正当な義務は、私が正しいと考えることをいつでもすることです」(ソロー)