手放しの教育愛?

 ネットでニュースを見ていたら、先週の土曜日(3月21日)に宮城まり子さんが亡くなられた、と報じられていた。93歳だった。ほんの少しばかりの出会いがありましたので、穏やかならざる心持ちで、哀悼の意を表したいと思いました。もう何年になるか、宮城さんからぜひともお話を伺いたい、それもぼく一人だけじゃなく、たくさんの若者にも聞いてもらいたいとお願いしたのでした。ねむの木学園についても大きな関心をいだいていましたので、率直にお願いをしたところ、聞き入れてくださった。障がい者・養護教育について貴重なお話を聞くことができたのをいまさらのように感謝しているのです。その当時、夜中にまり子さんから電話がありました。ぼくも必要があって、何度か「まり子の部屋へ電話をかけて」ということがありました。

 この「分野」というのも変ですが、島における草分けのような先達がおられ、ぼくは根っこのところから教育問題を教えられたと自分では考えてきた。今ではまずご存じの方はほとんどいないでしょう。近藤益雄(こんどうえきお)(1907-1964)さん。長崎の人です。近藤さんが亡くなられたときに重なるように宮城さんは「ねむの木」を作られました。詳しいことを宮城さんからは伺えませんでしたが、お二人の関係には因縁を感じたりしました。どこかで宮城さんについても述べたいと考えています。今回はほんの少し、近藤さんについて。

 わたしたちは時に、「この意見は絶対に正しい」「本当の教育はこうなのだ」と思いこみがちです。日常生活で多くの難題に遭遇しますが、それに対して一つしか答がないと断定すること自体、あるいは危機状態なのかもしれません。こうも言えるし、ああも言えそうだという姿勢は「自信のなさ」ではなく、むしろ精神の自由を証明するものです。それはまた、「迷い」の表れでもあります。迷いは独断からの解放の端緒ともなる。手前勝手な言い草ですが。

 以下は、藪に馬鍬(ヤブニマグワ)のようです。親鸞の言。

「親鸞は弟子一人ももたずさふらう。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念仏をまふさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ。弥陀の御もよほしにあづかて、念仏まふしさふらうひとを、わが弟子とまふすこと、きはめたる荒涼のことなり」(「歎異抄」) 

 何か教えたから教師で、教えられたから弟子であるというのはきわめて皮相な話で、実際にはどんなに立派(大切)なことを教えられても、それを自らのものにしなければ、教師は何を教えたことにもならないし、子どももまた、何を教えられたことにもならないのです。「弥陀の御もよほし」があればこそ、救われるというのです。

ねむの木学園

 「弟子」(同行同士)無数の親鸞の吐く肺腑の言でしょう。教えられる側にはっきりとした覚悟があったからこそ、師の言葉は伝わった。親鸞は教えられる側の「覚悟」を「弥陀の御もよおしにあずかって」といいます。「わがはからひにて」教えてやったというのは厚顔のきわみというほかありません。

 《助教(代用教員)になって一年たらずのある女教師が手紙をよこして、〝私は自分の教えている子どもたちをどうしても愛することができないでなやんでいる。これで教育者としてほんとうにやっていけるのだろうか〟という意味のことを訴えてきたことがある。

 私はそのとき〝あなたのなやみはもっともだと思うが第一子どもたちを愛するなどということが、そんなにたやすくできるはずのものではない。愛することがそうやすやすとできるなどという考えは一種の思いあがりにすぎない。そんな大それたことを考えているうちに、子どもたちは私たちをどんどんはなれ去っていくだろう〟と答えてやった。ところがそれでその教師はいちどは腹をたてたようだったが、だんだん子どもたちを教えていくうちに、愛情などというあまい感覚とはまた別のものが、実は教育の支えとなっていることに気づきはじめたようだった》(近藤益雄「子供への愛情について」)

子どもたちと近藤さん

 「子どもへの愛情」、それと混同されているような「子ども好き」ということば。そんな甘ったれた言い草とはちがったものによって教育は支えられているというのが近藤さんの経験談です。「愛するがゆえに教育をするのではなくて、教育することによって愛すべきものになるという」、こんな考えはまちがいだろうかと益雄さんは自問する。

 上に引いた親鸞の「弟子ひとりもたず候」について、益雄さんもつぎのようにいうのです。

 「私はそこに愛情以上のものを感ずる。…〝一人一人の子どもを公平に愛せよ〟などと教えられているが、そのようなことがはたして実行できることだろうか」「それは土台、無理な話であって、できもしないことをいうだけのような気もするのです」

 「子どもたちは結局私たちの弟子ではないのだ。ましてや私たちの肉親の子どもではない」

  「子どもが正しく生きていけるような場がどんどんくずされていっている今日の社会に目をひらき、そこの中で子どもを守ることの困なんはもはや愛情ではどうにもならなくなってきたのではないでしょうか」

 近藤さんは子どもへの愛情を否定しているのではないんですね。

 「一人一人を平等に愛する」とか「じぶんのこどもと同じように他人様の子どもを愛する」などとできもしないことをいうのはやめたほうがいい、ただそれだけです。

 「子どもへの愛情を否定してきたようだが、実はこの否定の後にあっても、さらにもえあがり、芽だってくるものとしての愛情をこそ、私はうたいたいのだ。手ばなしの教育愛などというもの程危いものはない」というのです。

 弥陀の本願、弥陀の御もよほし、それは黒カビの生えた寝言か。それとも抹香臭い戯言といわれるか。(「センスの否定」の後に)