問答無用は論外と知るべし

 《授業での問答の時には、教師がよく知っていること、答えをしっかり胸に持っていること、それを子どもに聞くということが、ほとんどだと思います。鑑賞などで危ない時はあるようですが。教師はよく「ほかに」「ほかに」と言いますが、その教師自身は、ほかに何を考えているのかしらと思うことがよくあります。

 こういう場合は、教師自身に発言してもらったほうがよほどよい、と思うことがあります。「ほかに」「ほかに」と、よほど子どもに期待しているのかな、思うときもあります。私はもっと教師がほんとうに聞きたいこと、聞かないと困ること、それを子どもに聞く機会をもたないと、ほんとうの問答の力がつかないし、問答の必要感もでてこないと思います。自分がよく知っていることを相手に聞くということは、普通の生活では無礼なことですから、しません。ですから、ほんとうに聞こうという、そこなのです。それは、教師が何も知らなくて、分からなくて聞いているということとは、まったく別なことです》(大村はま『日本の教師に伝えたいこと』筑摩書房刊。1995年)

夜間中学「こんばんは」2003年/日本/16mm/カラー/92分

 必要に迫られた場面でなければ、たしかな「問答」(ダイアローグ)というものはなりたたないといわれる。「生きた人間が生きた人間に聞いて、生きた人間が生きたことばを使って答える、そういうことでしょう、問答というのは」ともいわれます。

 「何と読みますか」 「そう、よろしい」

  これは問答なのか。聞かないよりはましだろうが、それでなにが行われたのか。答え合わせをする、検査する、確かめる、そのために聞く、そんな問答まがいが世に氾濫しているというのが大村さんの慨嘆でした。

 ところが学校には、よくひとつの学校型の優等生がいて、教師が何か聞いたら、とにかく返事をするのがいいんだと思い込んでいます。何はともあれ、なんでもいいから、とにかく早く答えたほうがいいんだ。いや、そうしなければいけない、というふうに考えているようです。そういう子がぱっと手を挙げて感想を言います。そうすると、教師 はそれを聞いて、「ほかに」 とか言って、(私はこの「ほかに」ということばが大嫌いです。だれかが答えた答えのほかにと言って、さっき答えた人はちっともねぎらわれないことが多いのです)「ほかに」「ほかに」とやっているうちに、とにかく答えることがいいんだ、考えることよりも答えることが大事だと心得る、そんなふうにならされていくわけです。

 答えられたときだけ褒められて、黙っているとよくない。子どもは教師に喜んで欲しい。これはもう当然のことですから、何か言おうとします。私は、これはこわいことではないかと思います。ほんとうに自分の気持ちが表せることばでなくとも、とにかく適当に言えるというのは、こわいことではないでしょうか。

 「ほんとうに言おうと思っていないことでも、適当に人に言えるということは、とても寂しいことのような気がします」(同上)

 大村さんは「問答本来のもの」といわれました。本来の問答、それは対話ということを指すでしょう。対話というのは、文字どおりに一対一の話し合い。

  「聞き手のいない一対一の世界」、これこそが対話の生まれる場だというのです。

 教室にはたくさんの子どもたちがいる。だれかひとりに質問して答えさせるのは、いかにも一対一の対話のようにみえる。しかし、多くの子どもたちがそれを聞いているだけなのだから、よく言えば問答ではあろうけれども、対話ではないのです。大村さんの言われることはまことにその通りで、いかにも誰もができそうに思いがち。ところがどっこい、そんなにかんたんにいきますかいな。「教えよう」「教えられたい」、そんな甘えた姿勢が教室をいじけたものにし、愉快でないものにしているんですね。話す―聞く、これを破り、これを越えたところから対話の手がかりが顔を見せるのです。「おしゃべり病」の教師と「聞き耳病」の生徒のなれ合いをすっぱりと断捨離することです。

 この問題は教室の中だけでは終わらない。家庭や企業など、少なくとも人が人に話しかけることからしか何事も始まらない「社会」においては必須の課題となっているのです。

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです