ナント・ホクレイ?

 歎異先師口伝之信

鴨川から遠望する比叡山。

 竊(ひそか)に愚案をめぐらして粗(ほぼ)古今を勘(かんが)うるに、先師の口伝(くでん)の真信に異ることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、幸に有縁の知識によらずんば、争(いささ)か易行(いぎょう)の一門に入ることを得んや。全く自見の覚語を以て他力の宗旨を乱ることなかれ。よて故親鸞聖人の御物語の趣、耳底に留むるところ、いささかこれを注(しる)す。偏(ひとえ)に同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々。

「歎異」とあります。

 歎異抄については、何かと異説があります。まず著者はだれか。明治以降では「唯円」というのが定説らしいのですが、その唯円が何者であるかが判然としません。東国地方の親鸞の同士であるらしいというばかりです。いくつかの異説の一は、如信説。親鸞の実子善鸞の子とされます。(後年、善鸞は親鸞に背いたという理由で、義絶)つまり親鸞の孫が書き残したものとされるのです。その二は覚如説。親鸞の末娘の長男の子、つまりは親鸞の祖孫です。

 ぼくは詮索は好みませんし、その能力もありません。さいわいに定説でもありますので、唯円作『歎異抄』ということで愚論を続けます。

 唯円は常陸(茨城)の人とされます。親鸞は師の法然とともに「承元の法難(1204、5年)」によって後鳥羽上皇から流罪を命じられ、法然は土佐に、親鸞は越後に幽閉されました。略述すれば、法然のとなえる「専修念仏(南無阿弥陀仏)」を延暦寺や興福寺衆徒が禁止するように朝廷に訴えた事件。これにもいろいろと尾ひれがつくのですが、ここでは省略。

河和田の唯円ゆかりの地。水戸市内。

 流罪の咎が解けた後、親鸞は東国に赴きました。(いったん京都に帰ったという説あり)都における布教が叶わなかったからです。この時期に多くの同行の士が生まれますが、唯円はその一人だというのです。親鸞はその後、京に戻ります。

 (蛇足ながら ここに後鳥羽上皇が出てきます。鴨長明のスポンサーだったことについては別のところで触れています)親鸞が生まれたのは長明の終の棲家になった京都伏見の日野(自動車じゃありません)でした。年代的に重なる時期もあり、二人が出会っていたら、さぞかしと思われたりします。また長明と同時代を生きた貴族・九条兼実(『玉葉』という日記で知られる)の弟は慈円で、九歳のころに親鸞が得度を受けるきっかけを作った僧でした。京都は狭い世界だったし、貴族社会もまた「敵であり仲間である」という政治家そのままの交友関係で縛られていた時代だったといえます。

カメラの位置に拙宅がありました。通称「あたごさん」

(余談ながら 京都の北にそびえる愛宕山(標高924m)、ここに竈(かまど)神が祭られています。ぼくの卒業した中学校では毎年冬季に愛宕登山を課します。(落語に「愛宕山」あり)ぼくは何回のぼったか。この神社に詣でた直後に、本能寺の変を起こしたのが明智光秀。この山のふもとが清滝で、さらに北に向かうと月輪寺があります。九条兼実が隠棲した寺とされます。法然・親鸞が流罪になった時、別れを惜しむために二人はこの寺まで来て、兼実に面会を求めたとされます。騙りきれない逸話がいっぱいで、ぼくの少年時代の渉猟コースでもありました。まるで長明のように、あちこちと彷徨していました)

月輪(つきのわ)寺

 阿弥陀信徒だった唯円たちがはるばる常陸あたりから京の親鸞を訪ねてきた。

 「おのおの十余ヶ国のさかひをこえて、身命をかへりみずしてたづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり」

 ぼくには信仰らしいものは皆無ですから、唯円たちが示す信仰心の苛烈さには理解の行き届かないところがあります。そんな「お前」が親鸞を騙るというのは、我ながらおかしいなあ、という心持がします。極楽に往きたいためではないのは言うまでもありません。たんに『歎異抄』をかじり、親鸞の心情を垣間見たいだけのよこしまな気持ちがこのような破廉恥・無礼をさせているのです。

叡山・延暦寺・根本中堂

 元に戻って、唯円は師の没後三十年ほどもたったころ、「ひそかに一つの考えが生じて来た。師の伝えた教えが古今をみてみると本当の信心とはおよそ異なっているのを歎くようになった。これでは後の世代が学ぶのに迷いが生まれるであろう。ありがたい導きにあって、どうして「やさしい念仏専修」の門に入ることができよう。自説でもって他力本願の宗旨を乱してはならない。

 したがって、師の語るところ、耳に残っているところをここに取り出しておく。ほかでもない、後続同行の士の疑惑を防ごうとするためである。

 「歎異」、つまりは師の教えがいまでは異なって流布されている、それを知って嘆かざるを得ないという唯円の、信心を通して師に回帰しようというこころざしが、著述のきっかけとなっていると読めるでしょう。忘れられない親鸞の言葉を書き残しておこう、その一点が歎異抄の核心であります。

 身命を賭して遠方からここに来たのも「ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり」と親鸞は言う。

「しかるに、念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文(ほうもん)等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはべらんは、おほきなるあやまりなり」

 「念仏が大事というが、そのほかに法文(教義)なども知っていると、もしや考えておられるなら、それは大きな誤りである」と親鸞は明言するのです。そんなものは南都や北嶺の学者(僧)にきけばいい。親鸞はひたすら「専修念仏」大事と師(法然)に教えられた通りを信じているのだ。念仏を唱えて極楽へ行くやら地獄に落ちるやら、自分はまったく知らない。

「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう」(聖人にだまされて、念仏を唱えて地獄に落ちたって、いささかの後悔もない)

 法然も親鸞も比叡山にのぼって学問をした。当時は延暦寺は国(官)立だったといっていい。もう一方の興福寺も同じ官立系列に属していました。世に「南都北嶺」と称していますが、それは今にいわれる(まことに頼りないが)国立大学、いや官立大学にあたりますね。「講義」だの「講座」「講演」「講堂」と今でも使われることば(符丁)は多くはお寺から来ました。えらい坊さんは教授です。頭を丸めない生臭坊主が各地の大学を占拠している風ですね。いまでは「講義」は「抗議」に、「講座」は「口座」に「講演」は「公園」になっているんじゃないかしら。ぼくの知っている大学の何代目かの総長(山口組じゃない)は「わが大学はディズニーランド」で結構、入場料さへ払ってくれるなら、「どなたでもどうぞ」とほざいていました。坊主丸儲けかね。

 再び蛇足ながら 「承元の法難」というのは、いわば「学問の正当性」の争いのお面をかぶった、信者(門徒)獲得競争でした。いまの大学入試における志願者争いを見れば事情はわかりそうですね。南都も北嶺も、ともに官立大学。一方法然と親鸞は私立の「専修(念仏)学校」ですらなかった。掘っ立て小屋同然のものでした。入試もなければ授業料もなし。入りたければ誰でも結構。「悪人もどうぞ」という具合だったから、官立は怒りました。「シマ」「縄張り」を荒らされるのを放置できなかったから、朝廷(いまなら文科省か内閣か。まさか皇居・宮内省じゃないでしょう)に訴えた。(一説によれば、日本のヤクザの系譜をたどれば、禅寺に至るといいます。「一宿一飯」「仁義を切る」「果し合い」などなど)

 勝負は端(はな)からついていました。国家権力ににより近い勢力が勝つのが今昔の「センス」だった。官位(官職と位階)とは権力者からの距離計測装置。無位無冠の法然・親鸞組は犯罪人として流刑に処されました。なんだか、今の時代にも通じているでしょ。嘘八百吐いても、一寸たりとも地位は変わらない。あろうことか、三権の長を自任している。汚濁された権力の椅子ですよ。消毒ぐらいじゃ追っつかない。焼却処分しかないでしょ。盗人猛々しいというのは誤りで、政治家・官僚猛々しいですね。辞書も改ざんしなければ。「盗人に追い銭」で、庶民はいい面の皮。「泣く子と地頭には勝てない」はいまでは「泣く子も黙る、塵芥政治家・官僚」ですか。

 いま、島社会は別口の「法難中」です。人命を弄ぶ輩たちに牛耳られ、乗っ取られています。(元国税庁長官が公文書改ざんの指示を出し、その作業を行った下僚が自死したという事件で遺族が元長官を相手に訴訟を起こしたという報道がありました。「私や妻が事件にかかわっていたら、総理も議員も辞める」と大見えを切った、国会答弁がすべての始まりでしたな。それがウイルス退治のためにと、厚顔にも人民に命令を下しているという現下の滑稽の図。どうしようもない「私」が歩いている)

(註「南都は奈良,北嶺は比叡山延暦寺をさし,最澄が比叡山を開いたことを奈良の仏教教団と対比して呼んだもの。10世紀に入り,諸大寺の僧兵中,春日大社の神木を擁した興福寺の僧兵と日吉(ひえ)神社の神輿(みこし)を奉じた延暦寺の僧兵とが代表的となり,互いに確執を繰り返し,朝廷への強訴(ごうそ)を行った。そのため南都北嶺の称はもっぱら強訴の僧兵をさすこととなった」(百科事典マイペディア)

投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)