石垣りん(1920~2004)。芯が強くて、意志の大切さをぼくに感じさせてくれた詩人。

ある雑誌に次のようなエピソードを語っておられます。
「親戚の女子高生が言ってきたことがあるんですよ。<試験に石垣りんの詩が出たけど、正解がわからない>っていうの。「作者が表現しようとしたのはつぎのどれか」という設問の正解が作者の石垣さんにもわからなかった、と。

「詩って、いろいろ意味がとれるでしょ。与えられた中から答えを選ばなきゃいけないって言うのは大変不都合だと思った」
「洋服でも着物でも、昔は自分で作ってましたよね。いまはみんな、買う、つまり出来合い品から選ぶんです。答えも選ぶんです。自分で書くのでなくて」
「子どもたちが自分で考え、自分で書く。大事なそのことに付き合ってくれる大人がいなくなった。怖いことですね」
石垣さんが高等小学校を卒業して「事務見習」で東京丸の内にあった銀行に就職したのは昭和9年(14歳)のときでした。(すでに八十五年以上が経ったんですね。お別れしたのはついこの前だったような気がします)初任給は18円。その18円が、自身の意に反して、一家を支えるなけなしの元手となった。四畳半に6人の生活から、硬質な光沢をもった、清冽であり薫風薫るような詩が生みだされました。このあたり、青春の大半を使い尽くした、並大抵ではなかった明け暮れが強いた辛苦が石垣詩の骨格を作ったと思われます。

「出来合い品から選ぶ」「子どもたちが自分で考え、自分で書く。大事なそのことに付き合ってくれる大人がいなくなった。怖いことですね」という文章に目がとまった時、飲んだくれだったぼくでさえも慄然とした。恐れおののいたといっても過言ではなかったと思いました。子どもが歩く、その子どもと「いっしょに歩く人」が教育者だったといったのはソクラテスという哲人でした。
子どもと歩く、どころか、自分でさえも歩かない、歩こうとしない大人(親・教師など)がいなくなったのはなぜだろう。マニュアルが横行する時代は人間の器量が著しく棄損される時代でもあるのです。それもまた、教育のなせる業といっていいのか。「考える」は「歩く」です。
以下はオマケです。
詩の四行に読みこまれている悲哀と怒り。かくて、わたしたちは大切なものを忘れていく、忘れられるはずはないのに。それでいいのか。
死者の記憶が遠ざかるとき、

同じ速度で、死は私たちに近づく。
戦争が終って二十年。もうここに並んだ死者たちのことを、
覚えている人も職場に少ない。 (「弔辞」)