質問 自分の思いを正確に伝えていく方法についてお聞きしたい。
佐野 わたしが読んでちっとも気持ちが伝わってこない文章っていうのは、自分を自分以上に見せようと思って、恰好つけたり気取ったりしている文章っていうのが非常に伝わりにくいと思います。名文でなくっても非常に稚拙な文章であっても、正直に自分の気持ちを言えばその思いは伝わると私は思う。で、谷川さんにもお聞きします。

谷川 まず第一に、自分の思っていることを正確に伝えるってことは、基本的に不可能だってことが一つありますね。それからもう一つは、その前提として自分が思っていることを、正確に自分が知っているかどうかってことも、ちょっと疑問があるってことがあるんですよね。その場合、もしそれが非常に激しい情熱に裏付けされている場合には、多分正確にわかっていると思いますね。つまりものすごく怒っているとか、ものすごく悲しいとかっていう場合がある。

そうじゃなくて、もうちょっと、つまりなんか複雑微妙な自分の感情の揺れとか、心とかってことだと、それは、ことばで正確に伝わるってことは、まずないんじゃないかなって思うんです。ことばって基本的にそういうもんだと思うんですけれども。ただ幅があるってことはあります。
それからもう一つの点は、散文で書く場合と、詩で書く場合は、全然違うんじゃないかってことがあるんですけれども。(中略)
で、散文の場合には、やはりちょっと違ってて、やっぱり自分ですごく集中して考えて、どういうふうに言えば一番自分の言いたいことに正直か、ってことを相当考えなくちゃいけないと思うんですね。だからその場合に一番よくないのは、佐野さんが言ったように見栄を張るとかいろいろあるけれども、もう一つは、紋切り型の、例えば新聞とか雑誌とかあるいは他の書き物とかで、前に自分が読んだものをそのまま当てはめてしまうっていうのは、僕は多分もう一つよくないことじゃないかと思うんですけどね。

だから、すごく集中して自分の気持ちにできるだけ正直に書こうとすれば、散文の場合には、ある程度は僕は書けるだろうと思います。だから、それが他の人に全然違うようにイメージされても、それはなかなかその他人を責めるわけにはいかなくてね。で、自分はどんなに正確に正直に書いたと思っても、〝ことば〟ってのはどうしても他人に受け取られる場合には、ある誤差っていうのは出てきてしまうと思うんですけれども。(鼎談「100万回生きる方法」『神話的時間』所収。熊本子どもの本の研究会刊、1995年)
佐野とあるのは、絵本作家・佐野洋子さん。1938年に北京で生まれる。2010年没。作品に『おじさんのかさ』『おぼえていろよおおきな木』『100万回生きた猫』など。
谷川とあるのは谷川俊太郎さん。1931年に東京に生まれる。作品に『二十億光年の孤独』『空に小鳥がいなくなった日』『ことばあそびうた』など。

国語のテストで、作者はこの時何を考えていたかなどと問われる。「この一行」でいくら原稿料がもらえるか、まあ、「そんなとこだぜ」というのは谷川俊太郎さんです。印税がどれくらいはいるかなどというのがオチ(あるいはケチ)ですね、と当の作家が言うんだからまちがいないようですね。ぼくの駄文も試験問題に出たことがあります。中学入試だったか。ぼくには正解がわからなかった。原稿料はスズメの涙?見たことないが、まず「溜まらないほど」でしょうね。「どうしてこう考えたの」って聞かれても、記憶になんかありゃしませんよ。
先生!試験問題はよく考えて出してください。よーく考えて。「誤差」(書き手と読み手のとらえ方の違い)はかならず残ってしまう。なのに「正解は一つだけ」となぜ言えるんだかね、先生さん。百点満点というのは荒唐無稽ですよ。接近値(接線値)という度合いがいいんじゃないですか。いい線とか、まあそうだろな、ちょっとちがうような、とか。