責任を折半しながら

 忘れた青さ

 …私は、すぐれた教育技術者によって人間が作られてゆくという発想から遠く離れて教育を考えている。よき対話者としての父もなければ、鑑とするだけの教師ともめぐりあわなかった。

 それと言うのも、私の父が地方の警察の刑事であって、同じ県の中を始終転勤してまわっていたことと無縁ではない。私は、一年ごとに転校し、いつも先生になじまないうちにその地を去っていった。父はアルコール中毒寸前で、酒が切れるとよく母をぶった。だから私は、彼らを人生の「教師」として私の中で人格化するためには、想像力のたすけを借りなければならなかった。私は、いつでもいらだっている自分と、そんな私を管理し自律しているもう一人の自分とのあいだで、引裂かれていた。ウラジミール・マヤコフスキーの詩に

中山競馬場

  空は

  けむりの中で青さを忘れ

  ……

というのがあるが、私自身もまた外界の「けむり」によって、むしろ自失することがあっても、自分を強化することはなかった。

 戦後復活した「道徳教育」の押しつけがましい我慢の強要、スパルタ式体育教師のリビドーに奉仕するような長距離ランニング、そして教師たちの買った「馬券」のために、丸暗記して点数をかせがされるクラス別対抗のアチーブメント・レース。書きたくないときに書かされる作文という名の心境レポート、そして民主主義という名で、自分の存在さえも相対化され平均化されてゆく集団生活。―少なくとも、与えられた教育の中で私は「忘れた青さ」を、べつの場所で取りもどさなければ、窒息してしまいそうなのであった。

ウラジーミル・マヤコフスキー(1893-1930)

 私は、マヤコフスキーの「ぼくは心のための男さ」という句を反芻し、学校の外に「学校」をさがし、挙句に大学一年で中退し、それに代わるものを居酒屋、野球場、ダンスホールなどに求めるようになった。教養主義はメガネと運動不足しかもたらさないからおまえはじぶんで、思想を生成するために市街にかかわってゆかねばならない、と私にいってきかせてくれたのは、私自身の本能である。一冊の岩波文庫を読むように、一人のホステスの身の上話を「読む」ことは、自分を生徒にするだけでなく、教師にもしてくれる。自分は自分自身の師であると共に、名もない行きずりの酔客の師になっているかも知れないし、その師弟の相互関係は限りなく交錯し、幾何学的に社会を構成しているのである。

 私は、一度も「ほんとうの」教育者像を考えてみたことはない。しかし、私が今まで私自身と責任を折半しながら自分を教育してきたものなら、それは限りなく挙げることができる。のらくろ上等兵。アルチュール・ランボー。坂本キエおばさん。大列車強盗ジェーシー・ジェイムズ。中西太。セッちゃん。小川医師。石童丸。映写技師阿保さん。谷川俊太郎さん。予想屋の政。古川益雄氏。オスワルト・シュペングラー。その他大勢。(寺山修司「私自身 市井の万事が教師」)

(*てらやま‐しゅうじ【寺山修司】歌人・劇作家。青森県生れ。早大中退。前衛芸術家として短歌・演劇・映画など多方面で活躍。劇団「天井桟敷」を主宰。詩文集「われに五月を」、歌集「空には本」など。(1935~1983)(広辞苑 第五版)

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dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。