自分の弱さをかくさない

 宮本常一(1907-1981)というひとに再登場してもらいます。家業は旅籠屋でした。お遍路さんたちがよく泊まりに来ていたそうです。民俗学者。山口県周防大島生まれ。大島は瀬戸内でもっとも大きな島。この島人の遍歴にも騙るべき多くが残されていますが、いずれの日にか。胸を病み、遅れての天王寺師範卒。日本各地を歩きとおした人で、それはまるでものに取り憑かれたような歩き方、聞き方でした。村に生きる人々の姿を温かく描いた民俗誌を数多く残す。著「忘れられた日本人」「家郷の訓」など。『宮本常一著作集 全50巻』(未来社刊)が残された。

 宮本さんは比類ない大きな仕事をされました。ぼくは何十年にもわたって、彼の仕事から学びつづけてきたし、いまなお、読みついでいる。人間の生活―賢・愚とりまぜたものです―それをじつにていねいに調べようとされました。列島が「経済成長」という大きな怪物に併呑されていくさまざまな場面や情景、あるいはその流れに翻弄される常民の生活を委細漏らさず記録するかのように、列島の端から端まで歩きとおされた。

 青春時代の一時期、宮本さんは苦労されながら、師範学校を出られ、短期間でしたが、小学校教員を経験された。その時期の姿を調べたことがあります。低いところから、子どもたちと同じ地平で歩かれようとしている姿がはっきりと認められたとぼくには思われました。

 《ふりかえって見ると、私は決していい教師ではなかった。むしろいたってお粗末で、欠点だらけであった。自分の教壇を立派に守った記憶もないし、子供たちに対しても決して忠実ではなかった。そしてそれは教え子に対してのみではなく、親や妻や子に対しても同様なのである。そういう自分を比較的卑下しなくて考えるようになったのは敗戦のおかげだが、そのまえにいとぐちをつくって下さったのが芦田先生だと思っている。(略)

 自分の持つ人間的な弱さをジッと見つめ批判している先生の一面にふれて、大へん親しみを覚えるようになった。それまで師匠というものはすべて一つの完全な人格として私の眼にはうつっていた。私にない多くのものを持っている人としてうつっていたのである。しかし芦田先生の場合は自分の人間としての弱さをジッと見つめていたばかりでなく、私などにもかくさなかった。劣等児に対しての特別な思いやりもそういう所から来ているものと思うが、御自身としては、そういうものをたえずのりこえられようと努力せられて、生涯をつらぬかれたのであろう》(宮本常一「芦田先生の一面」)

 「優劣のかなた」の大村はまさんもまた、芦田さんに導かれた時期をもっていました。

 《先生はほんとうに個人を見ていらしたと思います。ひとりひとりを見ぬき、どのひとりをも生かそうとされました。今、中学生の指導の大きな問題点の一つは、個人差に応じる指導ではないかと思います。これができなければ、中学校の教室をいきいきとさせることはむずかしいと思います。(略)芦田先生の徹底した個人差の考え方は、私をグループ指導のくふうにうちこませました》

 《また、そのグループ指導についても、グループにすることによって、個人をよりよく指導するためで、いく人かを一つのたばにして扱うのではないという考えや、たとい、はっきりした、いわゆる能力別のグループにした場合でも、指導者が、優にも劣にも、人間として真に同じ尊敬をもっていれば、優越感も劣等感も起こさせるものではないという自信をもたせてくれました》(大村浜「芦田先生に学んだもの」)

 すでに何回か触れた芦田恵之助さん。彼にはたくさんのお弟子たちがおられました。この師弟関係という一面もまた独特の雰囲気を有するものであり、それには別途で語られる多くの物語がありそうです。

《高師の附属にいたころの話を少し申してみます。わたしは複式の学級をもっておりましたが、どんなに骨折ってみても子供が作文をかかんです。これほど骨折っても書かんなら、お前ら書きたいことを勝手にかけ―こう突っ放しました。すると、五、六年の学級が一心に書き出しました。実におもしろい文がたくさんできました。題を与えても、系統立てて、すっかりお膳立てして書かせようと努力した時には到底得られなかったようないきいきした子供の生活を書いた文が生まれました。わたしはこれに打たれました。子供の作文は結局この方法だと思いました》

 《爾来わたしの綴方の時間は、おまえさんたちが自分で題をきめて、書きたいと思うことを、好きなように書け―そういうやりかたをして二年目の冬の高等師範の附属の講習会に随意選題の綴方教育というように発表をいたしました。すると芦田は外国の自由思想をとり入れて自由作文をはじめたといわれました。この随意選題は当時はなかなか非難もされましたし、批判も受けました。広島の附属にいた友納友次郎君は系統主義による綴方を標榜しておりましたので、友納君には一番咬みつかれたのですが、彼は彼の信ずるところを主張し、我はわが是(ぜ)なりと信ずるところを行ずるのみであります。わたしはこの綴方の随意選題一本で今日までずうっと貫いて参りました》

【芦田恵之助(1873-1951)]国語教育家・教師。兵庫生まれ。国語科の読み方教育と綴り方教育に独自の理論を展開。著「綴り方教授」「読み方教授」。(大辞泉)『芦田惠之助国語教育全集』(全25巻、明治図書出版, 1987年)

 「高師」とは東京高等師範学校(現在の筑波大学)。「随意選題」は字のとおり、子どもが自分でなにを書くかを自分で選ぶという意味です。それが後の「生活綴方」につながっていく。

 大切な仕事をしたひとですから、功罪が半ば(毀誉褒貶)するのは当然だろうと思います。どんなひとについてもそうですが、彼や彼女はすばらしい仕事をしたのだから、「それをていねいに学びなさい」というまではいい。でもその学び方はむずかしいですね。その仕事を真似ることはできても、表面だけのことです。そのひとがみずからの方法を発見したように、自分もまた自分の方法を発見することがあるのだということを教えられる(考えさせられる)のではないでしょうか。他者から学ぶというのはそういうことです。(芦田さんは牧口常三郎氏とも近しい間柄だった。芦田さんも「教祖」と称されたような人です)

投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)