教師は教えなかった、だから…

〔ある時期、ある場所の「教師vs生徒」〕

 わたしは、ひとはひとに影響を与えることも影響をうけることもできない、という太宰治の言葉が好きだ。この言葉はひとはひとに教えることもひとから教えられることもできない、ということをも意味している。遠山さんはわたしに教えたのではなかった。だからわたしは教えられたのだ。遠山さんはわたしに教えた。だからわたしはそのことを教えられなかった。多くの学生たちのあいだには教授はただ敬遠すべき偽善者たちであり、大学は諸悪の根源であり、ただ通過すればいいと考えている怠惰でひねこびた箸にも棒にもかからない暗鬱な存在がきっといる。かれらに取柄があるとすれば、ただ無垢で無償でありたいという願望だけだ。わたしはそんな学生の一人であった。遠山さんの教育理念と情熱をもってしても、このような存在は落ちこぼれるほかないにちがいない。だがわたしの信じているところではこのような存在の地平を解明するところに膨大な未知数の課題が開かれているはずであった。(吉本隆明「遠山啓」『追悼私記』・ちくま文庫所収)

 遠山啓さん(1909~1979)は熊本生まれ。東京工業大学の教授を務められ、同時に算数・数学教育にも情熱を傾けられました。数学計算における「水道方式」を提唱。雑誌『ひと』創刊。さらには広く教育全般に対して発言をつづけられた。一方、吉本さんは東京工大卒の詩人・評論家。この「遠山啓」は追悼文として79年に書かれた。

 敗戦直後、西日が落ちかかった東工大の階段教室で遠山さんは「量子論の数学的基礎」という講義をされていた。その講義に参加したときの情景を、後年いくども思うかべたと吉本さんは書かれています。粗末な詰め襟の国民服姿での「量子化された物質粒子の挙動を描写するために必要な数学的な背景と概念をはっきりと与えようとする」講義だった。

遠山啓さん

 ことの発端は、敗戦直後に工場動員から帰ってきた学生たちの数人が「なんでもいいから講義してくれという。ぼくたちは大学にはいったが、工場動員の連続で、ロクな教育を受けていない、だから、講義というものに飢えているのだ」ということからだった。「率直にいうと、長い教師生活のなかで、そのときほど熱をこめて講義したことはなかったような気がする。講義をきくほうも、するほうもなにかに利用しようという目的もなく、まったく無償の行為だったからであろう」(遠山啓「卒業証書のない大学」)

 「教える―教えられる」ということ

 「遠山さんはわたしに教えたのではなかった。だからわたしは教えられたのだ。遠山さんはわたしに教えた。だからわたしはそのことを教えられなかった。」

 吉本さんのこの指摘こそ、願わしい「教育」というものが内包しているはずの真髄を言いあてているとぼくは直観しました。これをべつの言い方になおせば、「先生が教えたから、わたしは学ばなかった。先生が教えなかったから、私は学んだ」と。これを学べ、という強要から、なにが生まれるのか「千六百年に関ヶ原の戦があった」と教えられるが、それでなにを学んだことになるのか。

 さらに、吉本さんはつづけられます。

 「物心ついてから、がさつな生活と戦争と敗戦の荒廃しかしらず、およそ教養の匂いなどひとかけらももっていないわたしには、この講義がつくりあげている稀にみる稠密(ちゅうみつ)な潜熱のような雰囲気が貴重なもののように思われた」(同上)

二人静か
一人静か

 なんだってそうですが、他者といっしょになにかをなしとげるのであって、授業も教室にいる全員が協力して作り出すものではないですか。教室(にかぎらない〉で教師は独り相撲を取る場合がきわめて多い。教室を土俵に見立てると、そこにいるのは教師ばかりという殺風景な場面が浮かびます。「一人(教師)静か」や「二人(教師・生徒)静か」はいただけない。それは花の名であり酒の銘柄にもありますから、そちらに譲り、互いが一瞬の「無償の行為」に浸りきるという、そんな経験をしたことがある人は、それだけで幸せだったろうと羨ましくなるのです。「優劣の彼方」で行われる「無償の行為」というものかもしれません。(「稠密な潜熱」の土俵上)(吉本さんの続きです)

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dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。