《校長先生のことをおぼえている。七十年たってもおぼえているのは、めずらしいと思う。
旧東京市を横切り、電車を乗りついで小学校に達するのだが、一年生には苦しかった。他にもそういう一年生がいるらしく、朝礼のとき、ぱたん、ぱたんと倒れる気配がする日もあった。
校長先生の話は、みじかかった。
「今日は天気がいいね。」
それだけ言って壇から降りてしまうこともあった。全校生徒八百人を前にして、それだけ言って終わるのは、今、私が老人になってみると、めずらしいことだと思う。高い位置に昇ったことのある人は、引退してからも、話が長い。結婚披露宴などに呼ばれて、話のとまらない人は、高い位置に昇ったことのある人だ。


校長先生は、雨の日に校内の廊下などですれちがうと、「○○君、元気か」などと呼びかけてくる。一年生それぞれにそうだった。
一年生は、全校生徒八百人の中にはじめて入ると、恐怖をいつももっている。愉快とは言えない。朝礼の時の他にも、校長先生はときどき、話をすることがあった。そのときには、すこし長めで、その話を七つ八つ、今もおぼえている。
当時、先生は初老で、今、私が八十二歳になって考えてみると、新入生の名前をおぼえるのに努力が必要だったろう。おそらく、新入生の写真と名前をあわせておぼえるように、自分なりの練習をしたにちがいない。そして名簿を読み上げるのとちがって、偶然に出会うときに心から湧き出るように、その名を呼んだ。

十年あまりたって、私(鶴見)はアメリカの捕虜収容所にいた。便所掃除のコツを教える、白いひげの上杉さんという老人がいた。私が当番にあたったとき、上杉さんは私に、「君は高等師範の附属小学校だろう」とたずねた。「そうです。」
すると、「君たちの小学校の校長先生が、会いたいと言うので、ジョン・デューイのところにつれていったことがあるよ。」
そうか。朝礼の訓示がみじかかったのは、デューイから来たのか。すれちがったときに、一対一で、生徒の名前を呼ぶというのも、デューイから来ているのか。(鶴見俊輔『思い出袋』岩波新書、2010年)

高師の附属小学校の校長は教授が務めるのが慣例でしたから。佐々木秀一先生も教育学の歴とした教授だった。(「高師」とは「東京高等師範学校」で戦前の教員養成学校の頂点に位置していた。その後は「東京文理大学」、「東京教育大学」から「筑波大学」と変名・変装して現在に至っている)当時の佐々木先生の令名はたいへんなものだったと思われます。著述もかなりの数がありました。(ぼくも何冊かは所有している)鶴見さんは佐々木さんがいかなる人物だったか、当時はもちろんのこと、その後(この著書を書かれた時期)もご存じなかったようで、ただただ挨拶の短い校長、デューイ直伝のプラグマティストと判断されたのでしょう。その判断の是非はともかく、ある意味では佐々木校長に真性の(と思われる)プラグマティズムが生きていることに驚かれたのです。

実はちょっとした因縁があります。ここに書くのは余計なことですが、ぼくは佐々木さんの孫筋に当たるようだと気づいたのはかなり前です。大学・大学院(行ったのは無駄だった)時代の教師が元教育大学教授で佐々木さんの後輩でした。この教授は高名な人で、たくさんの著書も書いていた。ぼくはいつも暇だったので、彼の戦前・戦中期に書かれた本を読んでいやな気分に襲われたのを今でも記憶している。故人の評価にかかわる話で、とやかく言いたくないのですが、大変な「国家主義・国粋主義」の人でした。(多かれ少なかれ、地位ある人間どもが権力に靡いた時代だったから、無謀な戦争に走ったのだと思います)ぼくが出会った時期(二十歳頃)はそれを隠して教授は「立派なクリスチャン」だった。さらに「嘘つきのキリスト教徒」というイメージをいだかされたのは、彼が亡くなった時でした。教師不信は止むことがなかった、とは自分で招いた不幸だったね)
以後、若気の至りか、その教授のマヤカシ性が頭について離れなくなりました。(これもまた、貧相なぼくの「教師の面影」かもしれない。ひねくれていたから、「悪い面影」しかぼくには残っていないことになる。残念なことだ)
《明治に入って、プラグマティズムは、ウィリアム・ジェイムズを通して三人の知識人に深い影響をあたえた。夏目漱石、西田幾多郎、柳宗悦。その後、日本の哲学者のあいだでは、消えてしまった。だが、大学教授から遠く離れて、佐々木秀一という小学校校長の教育の中に、これはジェイムズではなく、デューイを通してだが、プラグマティズムは生きていた。》(同上)

佐々木さんのデューイ論はここでは触れませんが、学生時代からぼくもジョン・デューイはたくさん読んでいました。彼の『民主主義と教育』(Democracy and Education. 1916年)はいまなお、ぼくの身近にありますね。デューイについても騙る種は尽きませんな。「日本の哲学者のあいだでは、消えてしまった」と鶴見さんは言われるが、いやちがいます、とぼくはいいたい。田中王堂から石橋湛山へと、それから…と。戦後の51年、デューイはこの島にやってきていくつかの講演をしています。大正期にも来日していますね。いずれ騙りますかな。(脇道にそれて、終わり)