「十年一昔」かね

 この島社会にはたくさんのことわざ(諺)がありました。今はなくなったといいたいね。諺が生まれ出るような生活もなければ知恵も失われたと考えているからです。諺は生活の知恵でしたから。「十年一昔」という俚諺はどういう意味だったか。今はあまり使われなくなったのは、その諺に表現されていた「現実」や「現象」がなくなってしまったからでしょう。「世の中は移り変わりが激しく、10年もたつともう昔のこととなってしまう」(デジタル大辞泉)というらしい。また反対に「十年一日」ともいうのね。(「同じ状態がずっと続いて、進歩や発展がないさま」)(同前)

 ここに、果たして十年前はどんな「昔」であり「一日(いちじつ)」だったかを確かめるつもりで「旧聞」を出してみた。社会や人間はずいぶん変わるのか、あんまり変わらないのか。変わる部分と変わらない部分があるんだといえば、身も蓋もありませんぜ。

「ドイツには「カラスは仲間の目玉をえぐらない」ということわざがあるという。動物行動学者のローレンツはこれはことわざとしては例外的に正しいと述べる。あの鋭いくちばしで仲間の目を突いていたら、カラスはすぐに絶滅するからである▲一方、彼は小さなくちばししかもたぬキジバトとジュズカケバトを飼っていた。ある日彼が帰ると、キジバトが羽毛ばかりか皮までむしられ、倒れている。ジュズカケバトはその上からなおも相手の傷をつついていたのだ▲ローレンツによれば、強い牙やツメ、くちばしなどのある動物は同種への攻撃を抑制する本能をもつ。それに対し無力な動物は仲間への攻撃の歯止めを欠き、人間もその一つらしい。だが文明は、攻撃性の抑制がきかない人間に武器という攻撃力を与えたというのだ」(毎日新聞・10/06/23)

カラス

 コンラート・ローレンツ(1903-1987)はオーストリア生まれの動物行動学者。刷り込み理論で名高い。1973年にノーベル医学生理学賞受賞。たくさんの著書を書いています。彼の理論にはいくつかの修正も加えられてきました。(ここでは、遺憾ながら詳細は省く)

 上の記事に続いて「旧聞」です。

 「広島県内のマツダの工場で42歳の男が乗用車を暴走させて従業員を次々にはね、11人を死傷させた。男は同社の元期間工で、「マツダをクビになり、うらみがあった」「むしゃくしゃしていた。どうでもよくなった」などと自暴自棄ともいえる供述をしているという▲(中略)車であれ、刃物であれ、自分がどうなってもいいという殺意に操られればたちまち多数の人命を脅かす。攻撃を抑制する本能に代えてモラルや情理を蓄えた人間の社会だが、それをあざ笑うかのような攻撃衝動は今どうして噴き出るのか」(同上)

 次は大学の登場です。十年前の大学事情ですね。「今は昔」、それとも「今も昔も」か。

 「昨年の「大学の実力」調査で8割強もの大学が開いていた保護者会。そこには、学生を一人前の社会人に育てようと懸命な現場の姿が浮かぶ。関西の私立大が保護者との「懇談会」を始めたのは7年前。全国各地に学長ら教職員が年に数回出かけ、個人面談も行う。「学生に関する情報が欲しい」と学生部長。学生支援には親の協力が不可欠と強調する。

関西のK大学の「保護者会」風景ですって。盛況ですね。

 保護者向けの大学見学会などを行う別の私立大の教員は、「親を教育したい」と打ち明ける。学生の代わりに履修登録をする、授業中の私語を注意したことに抗議する。さらには「気に入らない就職先なら、働かなくていい。養ってあげるよ」と言う親さえいるという。「親自身が自立の妨げをしていることに気づいてほしい」と嘆く。

 ある国立大の教員は「もうリポートを書けません」と親に泣きつかれたことがあると苦笑していた。入学以来、わが子に代わって課題に取り組んできたが、専門課程で付いていけなくなったというのだ。大学が運営に腐心する保護者会の取り組みは、間違った親の出番を軌道修正する意味も持って、ますます重みを増すようだ」(松本美奈)(2010年6月24日  読売新聞)

 学校のもっている大切な機能・役割のなかでほとんど等閑に附されているのはなにか。子どもを人質(出汁・だし)にして、親を再教育することです。そんなことは考えられもしないという向きもあるが、じつはこれこそもっとも重要な学校の働きなのだとぼくはずっと考えてきた。その理由はいたって簡明です。子どもがじゅうぶんに安心して育つためには、まずもっとも長いつきあい(濃厚接触)を避けられない親の偏見や短慮、それに暴力から子どもを救う必要があるからです。

 もしも親たちが思慮の足りないままで「親でございます」「私がママよ」と子どもの前に立つとどうなるか。考えるまでもない。「親を教育したい」というだけではまだ不足で、親をこそ教育しなおすべきだというのです。これはけっして小中高校にかぎらない話で、大学もこの役割から自由ではないのさ。それがようやく大学人にも親たちにも気づかれだした。保護者会、おおいに結構ですな。それにしては手遅れだったね。

東京のC大学「父母連絡会」風景だそうです。「役員会」もありますよ。

 「親自身が自立の妨げをしていることに気づいてほしい」というのはいまに限らない話で、ぼくはうんと若かった二十歳頃から何人もの親から子どもの面倒をみてほしいと頼まれました。まあ、家庭教師といってかまわないが、それは子どものではなく、親の家庭教師だった。これは徹底していた。親の再教育はそんなに困難ではなかった。子どもが身の丈にあった成長をするために、親の考えや態度がどんなに大切かをひたすら納得させる性質のものでした。もしそれがうまくいけば、子どもはひとりで歩き出しますね。ようするに、「親の自立」ですよ。自立大学という学校だったね、ぼくが作ったのは。

ローレンツ父さんの後を追うアヒル

 さて、教師も親も自分は「キジバト・ジュズカケバト」か、あるいは「カラス」なのか、とくと考えてみるべきでしょう。新聞記事は「攻撃を抑制する本能」などとのんきなことをいっていますが、とんでもない、その「本能」こそが「教養」なんだ。じつに崇高な感情でもあるのですね。教養という「本能」が滅んで、ついに「攻撃性」が出番を得たんだね。「教養学部」はいつでも必要です。ブレーキとハンドルを踏み間違えないのが「教養」なんですよ。それは学歴とは全く関係ない。むしろ学歴は「まちがえなく踏む」ときの邪魔をするね。怖いですよ。

キジバト

 大学に保護者会なんて、という嘆きの声が当の大学内から起こったといいます。大学人の慨嘆はどういうことだったんですか。まさか、大学は「学問の不、いや学問の府」であり、「象牙の薹、いや塔」だから、そんなものはいらないというのだったら、顔を洗ってくださいというべきでしょうね。暢気に構えていると、キジバトが暴れだしますよ。もう暴れ放題か。いずれ企業社会にも「保護者会」「父母会」なる成人自立阻害組織ができるでしょう。いやもうとっくにできてるよ、君だけが知らないのさ。

 猫を被ったふりをしているが、「キジバト」はホントは怖いし獰猛なんです。学内にはカラスもハトも生息している。(ハトは「平和の使い」だなんて、だれがいったか)そぼ降る雨の中、家の引き込み電線に「平和の使い」がこちらを睨んででいます、ずっと。その横手にはカラスが。我が家にも保護者会を!

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dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)