たいていの人は「教師が教え、生徒は学ぶ」というふうに考えているようです。でも、厳密にいえばそれはまちがいで、正確にいえば、「教師が話し、生徒は聞く」というのが実情に近いんじゃないですか。例えば、「(先生が)英語を教える」というのと、「英語を話す」というのでは、あきらかにちがいますね。黙って話を聞け、というのがじつは「教える」のことで、実際は「話す・喋る」の謂。「話す」ことばは、教師にも生徒にも先刻承知済みです。生徒がわからなければ、教師はそれを「教える」ことをしなければならない。教えると話すは根がちがう。

だから「話すー聞く」の関係は、そこ(両者の間)に暗黙の了解が成り立っているのです。ぼくの相手が日本語のわからない外国人の場合を想定してみるとよい。日本語がそもそも理解できなければ、日本語をわかるように伝え(教え)なければなりません。でも、「日本語」が話されているというのがわかるならば、内容(を理解するかどうか)は問わないというのが、多くの教室の状況じゃないですか。日本語がわかるということと日本語の内容がわかるというのは同じである場合もあれば、そうでないこともあるのです。おなじでないなら、教師はどうするのがいいのでしょうか。ここから教育(授業)は始まる。

ここには面倒な問題がありますが、本当に〈教える―学ぶ〉関係というのはどういう関係なのか、それをていねいに考えることが肝要だと、ぼくはいいたいのです。
〈考える〉、これを英語では〈think〉といいますね。この単語から派生したとみられる言葉に〈thoughtful〉があります。
thoughtful:
1 思想の豊かな; 思慮深い; 思いやりのある, 情け深い, 親切な.
He was very ~ of my safety.
2 考えにふけっている, 考え込んだ.
さらには、〈rethink、unthink〉という語、〈relearn,unlearn〉という語もあります。
一度「考えた」ところを、もう一度「考えなおす」ということです。だれかから、なにかから学んだことをさらに「学びなおす」という意味で使います。先に考えたり学んだと思われる事柄をご破算にするんですかね。はじめからやりなおす。自分流に、です。
〈think〉なり〈learn〉は、ひょっとしたら「考える」も「学ぶ」もしていないのではないか。あるいはそれは受身の状態で外から与えられたままなのかも知れないのです。だから、それをもういちど、自分で、自分の力で「考える」「学ぶ」をしなければ、自分の経験にならないのです。自分の経験というところが、大切じゃないでしょうか。

他人から教えられたままを「飲み下す」「鵜呑みにする」とはいかにも無理・無体です。わけもわからないで、口にいれるのですから、栄養にもならない。あるいは消化不良を起こすのが関の山です。うまくいって、経験が伴わない、頭でっかちになるくらいがオチですよ。本を読んで水泳を学ぶみたいなもんですね。これを「陸沈」といったそうな。(他人が書いた作文をいつでも読まされている「●●ソーリ」をみると、ぼくはこのことをも思ってしまいます。自己経験なしの、口先だけの騙りです。だれにもなんにも届かない。だから取り巻きがが苦労するのでしょうか。嬉々としているんでしょうか)
おなじことですが、〈I think.〉ということが成り立つためには、その前提として、〈We think.〉がなければならないんじゃないか。「ぼくが考える」ためにこそ、「ぼくたちは考える」をていねいに経験しておく必要があるのだと、ぼくは思うのです。
もとをただせば、「知識」はだれかから与えられるものじゃなく、みずからがつくる(生みだす)ものであり、そのためには〈対話〉が欠かせないということを考えてみたい。その時、「黙れ」とばかり沈黙を強いられるとはどのようなことなのか、このことも合わせて考えてみることが必要じゃないでしょうか。「教えるー学ぶ」と「話すー聞く」は元からちがうんですね。

【ここで一服したいね】
「ほっとしたよ」と外科医が食堂の同僚たちのところにやってきて、溜息をついた。
「ちょうどいいときに手術をした!もう一時間おそかったら、患者は手術しなくても助かるところだった!?」
(どういうこと? なにを言おうとするんですか?多くの教師は、この外科医と同類じゃないかな。恐いねえ)(これはぼくが言ったことではありません。どなたかの文章をメモっておいたのですが、いま出所不明です。探しておきますが、まず何が言われているのかだけを…)