教えられる前に学べ

赤瀬川 いちばん魅力的なのは、自発的な力といいますか、自発する力だと思うんですよね。僕なんか勉強が苦手なもんですから、本当にそれだけなんですね。聖路加国際病院の精神科の大平健さんと対談したのはおもしろかったですね。患者さんが来ますね、分裂病とか鬱病とか。インターン時代は、その患者さんと先生のやり方をそばで筆記しながら覚えるらしいんですよ。意味よりも間合いとか流れを見るらしいんです。

原平さん

 大平さんの先生は『甘えの構造』の土居健郎さんで、患者さんが一生懸命、困ったことをいっていて、土居さんは「そうか、困ったなあ」とかいいながら聞いてあげてる。インターンとしては、次に何をいうかなって、待ってるんですね。あんまり間が長いんで、パッと見たら先生が眠ってるんだって(笑)。そしたら、患者さんがインターンの方を見て、「先生」眠っちゃいましたね、今日はもう僕帰ります」って。僕は名医だと思ったんですよね。 

鶴見 患者から学ぶ医者は名医です。患者から学ばない医者は名医じゃないです。

赤瀬川 患者はもう自分で治すしかないんですから(笑)。

鶴見 はははは。

赤瀬川 いやほんと、それしかないんですよ。

鶴見 学校の先生もそうですよ。子供から学ぶ。親もそうなんです。自分の子供から何を学んだか。自分の親にね、あなたは何を学びましたか、っていう質問を出してみるといいと思うんですよ。親はギョッとしますよ。つまりそのことをゆっくり考えて、何かの答えを出せればおもしろいですね。親にとって、0歳から学校に渡すまでの六年間の学校があるんですよ。それはまったく創造的な学校なんですよ。マニュアルはあまりないんです。いくらかあるとしてもね。親自身が創造的な教師だ、いや創造的な学生だ。これはおもしろいですねえ。教師も、生徒から学ぶ教師は、見込みのある教師なんです。

赤瀬川 そうですね。

鶴見 だから湯川(秀樹)さんはね、第一論文は一人で書いた。留学もなんにもしないんですよ。お父さんが漢学やってたんで、子供の時に『荘子』を読んだことが大変なヒントになるんです。第二論文は、自分の学生の阪田昌一との連名なんです。第三論文はこれも学生で、この間亡くなった武谷三男と阪田の三人の連名なんです。湯川さんは教室の中で生徒から学ぶ力を持った、珍しい教師なんです。(中略)

 日本ではね、先生が正しいことを全部握ってるというんで、小学校からやるからねえ。ここに混乱があるんですよ。日本は神の国であるぞよっていわれるから。これ困りますねえ。それはソビエト流にしても、同じことが起こるですよ。だから生徒から何を学ぶか。 

 〔この対談は「赤ん坊と老人」の力についてがテーマです。もう、読んでもらうしかないほど面白い。学ぶというのは教えるの反対ではなく、それの否定。教える前に学ぶ。論理や理屈は何とでも言えるもので、いわば空論です。赤ん坊は空論には無関係に、もの自体に(自然記号)密着します。教えられるのは理屈。それが遊びの本質ではないでしょうか。ものにそくして、動いて行く。自然流です〕

鶴見 言葉だけに意味があると考えているのが、学校教育の考え方なんだけども、それから手を離さなければ、学校に来るまで、どういうふうにして子が育ってきたかが、わからないわけ。つまり環境とのやりとりなんですよ。千年も千五百年も前から、そのことは認知されていたんですよ。つまり自然記号の問題。昔の家だと、老人に天気のことを聞く。今日の天気はどうなのか。雲の形を見るとか、四季を感じるとか、そういう意味の取り方があるわけですね。これは老人がひじょうにすぐれているんだけども、赤ん坊にもあるわけです。

 赤ん坊は、物と生物と人間の区別がはっきりしないですよ。いま、覚えているのは、カステラが来たら、私の子供はそれに対してしきりにおじぎをしていたね(笑)。カステラということはわかるから、いいものだと思うわけだ。だからおじぎをしているわけなんだ。それが普通でしょう。そこから出発するんですよ。そのことからしか意味の自然な成長はないんです。そのことを忘れちゃって、学校で何か教えるというのは、基本的に歪めてますね。(『鶴見俊輔対談集「未来におきたいものは」』晶文社刊。2002年)

 赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい)(1937-2014)本名克彦 作家・画家。一九三七年生まれ。主な作品として『全面自供!』、『老人力』、『老いてはカメラにしたがえ』など。

 鶴見俊輔(つるみしゅんすけ)(1922-2015)哲学者、評論家。大衆研究・思想史研究に新しい領域を開く。「思想の科学」創刊以来の中心人物。『鶴見俊輔座談』など。

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dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)