「新教育運動の華やかなりし頃、私もその運動の実践的な一翼に加わっていたが、新教育学校の中でも、もっとも急進的であった「児童の村」の教育なども、田舎から出て来たばかりの私には、やはりその背地(註 土から離れるという意味)は不満であった。自由教育の学校も総じてその教育理論の華やかな割合には、内容的に、逞しい大地性がなかった。いずれにしても都市的教育理論であり、文化人の盆栽学校であり、文化住宅式の土いじり程度のものであった。時代の産物ではあるが、時代を教育するものとは思われなかった」

「教育は時代の要求する人物を作る仕事であるとともに、時代の批評であり、修正でなければならないと考えていたのである」
「「教育とは子供の天分を自由に伸展培養するものである」ということには、異論はないけれども実際の教育を見ると、どうも時代や児童に甘えたものが多かった」(上田庄三郎『大地に立つ教育』上田庄三郎著作集①。国土社刊。1978年)
上田庄三郎(1894-1958)1914年高知師範学校卒。11年間地元で教員として勤務。最後は三十歳前に校長にさせられた。教委の意図は「いうことを聞かない奴を校長にし、後は退職を待つだけ」という謀略にあった。「自由教育」の急先鋒とみなされ、脱藩、もとい出離、いや出里。上京以後、劣島初の「教育評論家」として第二次世界大戦後まで活躍。

土佐の教育界はこの上田さんを擁するにはあまりにもふところが狭すぎました。彼の後輩の小砂丘忠義(1897-1937)にしても、いびり倒され、挙句にはじき出されるようにして郷里を後にしました。世上いわれているほどには剛毅さはなく、ゆとり(あそび)に欠けるのが土佐の教育(ボスたち)界だったといわざるを得ないでしょう。もっとも、坂本龍馬をはじめとして、離郷、出郷は後を絶たなかったのですから、むしろ、青年の側に六分の侠気と四分の熱がたぎっていたというべきか。
上庄さんの意気に感じる箴言をひとつ。
「資本主義的文明の奴隷として仕立てられた人間が想像するものはやっぱり資本主義的文明の繰り返しにすぎない。これではいつまでたっても人は学校へゆかない事をむしろ 得意にし、「君は学校にゆかなかったのに、そんなに莫迦なのか」という反語がいつまでも生きるであろう。(同上)」

「都会生活十余年、時々、モガやモボから、「百姓々々」と呼びかけられながら、この詛うべき近代背土文明の地底に、ひそかにしつらえていた小さい爆破作業の一部が、書肆の援助によって、この一書となり、世に問う機機会を得たのである。教育の革新期と云われている今日、軟かき蒼白き手よりは、節くれ立ったバラガキの多くの手が、季節はずれのこの書を通して、堅く握手されることこそ、著者の熱きねがいである」(はしがき)
このように上庄さんが書いたのは昭和十三年九月のことでした。
「君は学校にゆかなかったのに、そんなに莫迦(バカ)なのか」というセリフに出会ったとき、ぼくは驚愕し「狂喜乱舞」の異常な興奮をしました。こんな「ことば」は後にも先にも耳にも目にもしたことがない。彼の後輩の小砂丘忠義もまた、教委の鈍(なまく)らな、かつ陰湿な手には負えなかった。上田さん同様に、いや彼よりもっと若くに「校長」に祭り上げられ、反抗の限りを尽くしながら、やむなく出郷。上京し、いろいろな仕事をしながら、「綴り方」教育の屋台骨となり、黙々と子どもたちの作文に取り組む。最後は凄惨な死を遂げました。
今でもそうですが、「レッテル」を張った教員には徹底したいじめをするのが劣島中の教育委員会の仕事・職務。上庄も小砂丘もその洗礼を受け続けた。高知の山奥から海岸沿いの学校への移動は年中行事。辞めるまで続けたね。また小砂丘の妹も教員をしたが、憎い奴の妹だとばかりにさっそく「異動」を命じられたが、彼女は頑として言うことを聞かなかった。強情な点はハンパじゃなかった。一人じゃ何もできないが、「烏合の衆」を恃んで、ぼくらが思いつきもしないエゲツナイ仕業を仕掛けるんだね、役人は。今に変わらぬ、意地汚さ。(何年も前に、ぼくは上田さんの娘さん(校長でした)と都内北区の学校でお会いした記憶があります)

ぼくはこの二人の「いごっそう」教師の「生活と教育」を本にまとめようとして資料を集め、現地(土佐)での取材もし、数百枚(ひょっとすると千枚近く)の原稿を書いたのですが、どうしても気が進まずに、出版を断念したことがあります。数年前のことでした。出版社も乗り気で随分と気前よく援助をしてくれたのですが、放棄してしまった。なぜだったか、今でもよくわからない。彼らの教育実践が現下の劣島にはあまりにも「まとも」すぎて、まず顧みられることがあり得ないとぼくが判断したからだったと思う。「もったいないよ、この島には」「彼らには申し訳ない、いまの状況では」というへんてこな感情がぼくにはありましたね。いま考えても。両人の「ナンセンス」度は抜群でしたから。
あるいは狂い咲きのごとくに、駄本を書くことがあるかどうか。まずないね。