サクラチル、モットチレ

 第1回「美しい国づくり」企画会議 日時:平成19年4月3日(火)17:00~18:00                             場所:総理大臣官邸2階大ホール

○安倍内閣総理大臣

 皆さん本日はそれぞれ大変お忙しい中、この「美しい国づくり」企画会議第1回目の会合にお集まりいただき、厚く御礼を申し上げます。私は、内閣の発足以来、「美しい国」をつくるということを内閣の基本的な方針、目標として掲げてきました。ちょうど折しも今、桜の満開を迎えておりますが、このホールも桜のじゅうたんであり、やはり桜も一つの日本の美しさの象徴ではないかと思います。

官邸ホール

 本居宣長も「しき嶋のやまとごごろを人とはば朝日ににほふ山ざくら花」と詠んでいるわけですが、先般も来日されたキッシンジャー元国務長官にお目にかかったときに、彼は「日本には何回も来ているけれども、この桜の時期に来たのは初めてだ」とおっしゃいました。「ワシントンでは常に桜の花の満開を楽しみにしている」とのことで、ワシントンの桜の花はまさに日本のイメージとともに、米国人からも愛されていたということではないかと思います。この桜だけではなくて、日本中の至るところに日本の美しさは満ち溢れていると思います。

 かつて日本を訪れた多くの外国人は、日本人の礼儀正しさ、謙虚さに心を打たれています。こうしたお互いのお互いへの思いやる心(?)、あるいは謙虚な礼儀正しさ、そして共生していくことについて、日本人はその共生、協調を大変重んじており、言わば日本の美徳、美しい振る舞いといったものを我々はやはりもう一度見つめ直していく必要があるのではないかと思います。また近年それが失われてしまっているという声もあります。

 また、新たな日本の素晴らしい価値も生れており、アジアにおいてはいわゆるJ-POPS、また日本のファッションが新しい日本の美しさ、強さ、日本らしさとして受け入れられてもいます。日本人が古来持っている美しさ、またもともと存在する素晴らしさ、美しさ、そしてまた生れつつある新たな日本の素晴らしさについて、ぜひ我々ももう一度よく認識をしながら、これを内外に向けて発信していく必要もあるのではないかと思います。

 私は、就任の際の演説で、私の美しい日本の姿についてお話しましたが、わかりにくいというご指摘もいただきました。これは、まず私の考え方を述べさせていただいたものです。本来、国がそれを定義づけるのではなくて、国民の皆様方お一人お一人が、日本の美しさ、また日本人の美しさは何かということを問い直していただき、守るべきものは守っていく、継承していくものは継承していくということが大切ではないかと思います。

 こうして各界で活躍をされておられる有識者の皆様方にお集まりをいただき、皆様方のご議論をさらに国民の中に広めていくことが大切であろうと思います。そして、行動、実践していくことも重要ではないかと思いますので、国民的な運動にもつなげていければと思います。どうぞよろしくお願いします。(紋切り型・蛇足)

  よくわかんない。「桜・共生・協調・J-POP・ファッション」これが日本の美しさだというんですが。この企画会議の座長は日本画家の(故)平山郁夫さん。

 どうしようもないわたしが歩いてゐる(山頭火)

 山頭火と「●●ソーリ」は同郷のよしみ(山は湯田、晋は下関)ということで並べてみました。宣長さんをだしにして桜を騙るなんざあ、さすが山師。(もちろん、木っ端役人の作文)とはいえ、「美しい国」はどこに行ったのか。崩壊したのか。あるいは「美しくない国」になったのでご破算にしたとでもいうのかしら。それとも、すでに「美しい国」が作られたというのだな。

「春功労の花の縁」

 こんな「古證文」を持ちだしたのは、理由があってのことではない。雑録メモが見つかっただけ。今年の「サクラを見る会」を早々と(昨年のうちに)中止にしたとはなんという先見の明があったかと感心したんだ。たぶん「ウイルス感染」問題をとっくに知っていたからだ(超予知能力ね)。中止宣言はまだ中国で「コロナウイルス問題」が発生するよりはるか前のこと。(問題発覚は昨年五月。直後に「来年は中止」と断言。よほど「やば」かったんだ。今は「本物」の感染問題で一時逃れができているが、また再燃します)

 この会議の四か月後に突然の辞任を発表しました。サクラ散る!!!

投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)