雨の日には笑え!

  今日は朝からどんよりと雲が立ち込めて、時々雨が落ちてきます。なんともうっとうしい天気です。こんな日には「いい顔をせよ!」といったおじさんがいます。ぼくはおじさんの言を真に受けて、雨の日には笑うことにしてきました。そして、みんなから笑われましたよ。でも、笑われることには平気でした。まったく意に介さなかった。

 むしろぼくにとって大切だったのは、いやな状況に追い込まれた場合に、そこからどのようにして抜け出す(解放される)かが問題でした。「雨」はだれにも等しく降るけど、それに対して憂鬱になる人とならない人がいるのはどうしてか、それを考える方がはるかにぼくには意味があったというわけ。「笑う」と、どうなるか。なんだか「雨に謳え!」(singing in the rain!)とばかり、心身ともに伸びやかかになります。毎日毎日、まるでタイヤキ君みたいに「いやんなっちゃうよ」が続きますね。それにへこんでいたら、何もできない。時間が無駄だし、気分はムカつくし。

「雨に唄えば」(ジーン・ケリー主演、1948年作)

 今もそうでしょう。マスクの奪い合い、トイレットペーパーの買いだめ競争で、右往左往です。自分を失っているんじゃないですか。動いているんじゃなく、動かされてるんですよ。「いやな時には、いい顔を!」というのは、気分をすっかりいい方向に変える素晴らしい方法だし、カネもかからないし、人にも迷惑をかけない。ケンカにもならない。どうや!

「なんのためらいもなく、自分に対する疑いも自責の念もなしに人間を行動させるものは無意識そのものであることに注意していただきたい。自己と自己とのあいだの抑制、懸念、分裂、格闘、これがあってはじめて意識があると言えるのである。いわれのない突然の恐怖に直面して、人間が物と化してしまうことがある。どんなためらいも考慮も注意力もなくなってしまう。自分が何をしているのか、もはやわからなくなってしまう」(アラン『幸福論』)

 

 人間は不思議な存在です。だれもが自分の性格を知っているつもりでありながら、ときには思わずしでかしたことに対してわれながらハッとしたり、ドキッとしたりする。人間は器械だといったのはデカルトでしたが、それはあまりにもしばしば故障を起こす器械です。高尚なことをいったかと思えば、悪魔も驚くような残酷なこともやってしまう。ようするに、自分が器械であることを十分にのみこんでいないことから諸悪は発生しているにちがいないのです。まさに後悔先に立たず。

 私たちの不幸の十中八九は、自らの「不注意」から生じてきます。階段を踏み外したり、車にはねられたり。他人を恨んだり妬んだり、傷つけたり殺傷したり。焦りや不安に駆られて、自らの「気分」(passions)を上手に制御(操縦)できなかった結果です。「器械」の部分をうまくコントロールできなかったために、いろいろな不都合・不具合が生じる。アクセルとブレーキを踏みまちがえる事故が多発しています。そこからたくさんの不幸が生み出されている。事故には保険をつけようとぼくたちは計算しますが、人間器械の思わぬ事故(故障)には保険はまだない。怒り、恐れ、憎しみ、悲しみ、妬みから生み出される不幸につけられる保険は「なに保険?」だろうね。

 「いま泣いたカラスがすぐ笑う」などといいます。気分の激しい人をお天気(気分)屋などともいう。この気分という「天気」を予想する気象予報士はいるのでしょうか。ここで「気分」というのは、思案や想像から生じる、いらだちや倦怠、あるいは不安や恐れのことをさします。簡単な計算問題を前に、昨日見たテレビ番組に心奪われ、注意力が働かないことはだれもが経験することです。急いでやって5+8=14とまちがうのと、あらぬことを考えていて通行中の人を轢いてしまうという過ちは同根(不注意)ではないか。もっといえば、数学の問題は注意力を養うまたとない機会だと私には思われます。計算のまちがいは消しゴムで消せるが、車で人をはねてしまえばそうはいかない。ひき逃げは後を絶たない。恐れ(気分)からの逃走ですか。それを消しゴムで消そうという、とんでもない人がいるんですね。

 「すべての勉強は、子どもの性格のための訓練である」とはアランの道徳論の核心でした。

 「気分」は悲観主義に、「意志」は楽観主義に基礎をもつとアランは言います。そのこころは?

 「気分に対してたたかうのは、判断力の役割ではない。判断力はここではなんの役にも立たない。そうではなく、姿勢をかえて、適当な運動をやってみる必要がある。われわれ自身のうちで、運動を伝える筋肉(随意筋)はわれわれの管理しうる唯一の部分だからだ。微笑したり首をすくめたりすることは、心配に対する対策として知られている。そして、まったく容易にできるこの運動が、ただちに内蔵の血液循環に変化を与えることに注意するがいい。人は随意に伸びをしたり、あくびをしたりすることができる。これは不安な焦燥に対する最良の体操である。だが、いらいらしている人は、こんなぐあいに無頓着な態度をまねてみることなどは、考えつかないだろう。同様に、不眠症になやむ者は、眠ったふりをしてみることは考えつかないだろう」(アラン)

「微笑は、気分に対してはなんらなすところがなく、効果もないように見える。だからわれわれは少しもそれをしてみようとはしない」(アラン)

 アラン(Alain)(1868-1951)。本名はÉmile-Auguste Chartier(エミール – オーギュスト シャルティエ)。フランスの思想家・哲学者。長い間、彼はリセ(高校)の哲学教師を務めた。「モラリスト」と称される一人でした。また長期にわたり新聞にエッセイを書き、のちにそれは「プロポ」と名付けられて出版されました。ぼくは学生時代からアランに挑戦し、大変な苦労をしました。アラン研究は挫折しましたが、彼の道徳論からは多くを学んだと、自分に対してはいえますね。彼の著作を読むことは「気分に対する戦い」そのものでしたから。彼の思想の神髄は「握ってる拳を開け!」でした。そのこころは?五円玉が出るか、クッキーが出るか。???

 「雨の日には笑え!」(アランについても、駄文を続けたいね)

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。