…あと幾年の櫻花

 「わしがいろんなことに気づくようになったのは、やはり桜をやりかけてからですね。桜の生長の度合いを見ているときに、いくら人間がやいやいというてもどうにもならんとこがあるんですわ。花を咲かすには遅れていても芽さえできていれば、時期がくれば咲きますし、逆に咲くのを遅らす場合はフレームを入れるとか、日に当てないで長いこと寝さしておくとか、そういうことはできますけれど、人間の力で花の咲く芽をつくることは絶対できませんわね。

植藤造園

 人間はできたものを咲かすということはある程度できますわ。でも芽がなかったら、どうしようもないんです。そやから、「ああ、芽が出ん」というのは、もうすべてあかんということですわな」(佐野籐右衛門『桜のいのち 庭のこころ』草思社刊、1998年)

 「芽が出ない」というのは「もうあかん」ということ。そういわれれば、それまで。しかし、よほど無茶なことをしないかぎり、どんな木でも「芽を出す」ものです。

 今年咲いた桜の花芽は前年のお盆ころにでる。花を咲かせるというのはその木の一年間の仕事納めです。咲き終わると、あっという間に散る。それは、さあこれから来年に向けて精をつけるぞという合図のようなものでしょう。一年かけて花を咲かせるように時間をたどる。自然のリズムをいじることはできます。開花の時期を人工的に早めたり、遅くしたりすることはできる。でも、それがどんなに「美しい花」をつけたとしても、時間を調節する、時間をいじる、それはまちがいなく樹木の生長する時間を奪うことですが、そのことの弊害ははっきりしています。

十六代

 「このあいだも、仙台から、桜が弱ったから来てくれという手紙がきたので見にいったら、広瀬川の土手の上の官地と民地の境にずーっと桜が植わっているんですわ。問題の桜はたまたま民地のほうにあって、そこへ家を建ててから急激に弱ったという。一抱えもある桜です」

 いろいろ話を聞いていると、家を建てるときに、桜の根をあやまって切ってしまったらしい。だんだん元気を失って、すぐに葉を落としていったそうです。それで、これはいかんと勝手に思いこんで、根本に水をたっぷりやったというのです。

 「こんな木になんで水をやるんやて、わしは言ったんですわ。根腐れしているのと同じことなんです。この桜の根の先はずっと向こうにあって、そこから栄養分を吸うておるのやから、こんな幹の根本に水をやったって、かえって腐らすといったんです」

 佐野さんの弁はさらにつづきます。

 なんでも人為的に、つまりは人間の都合のいいように判断する。「自分の見たところで木までそうやと思っている。人間の生活と同じリズム、状態のことを相手にさせようとする。日本のあちこちの桜を見に行くと、ぜんぶそれですわ。それが日本の桜をだめにしているんです」

 人間の勝手が、どんなに自然を壊しているか、その自然から人間もはずれることはできないのに、です。自然を壊す、それを教育やなんやと、アホなこというてますな。

 根本に水をやりつづけるとどういうことになるか。

 その木は根を伸ばそうとはしなくなります。なぜなら、自分で根を伸ばさなくても栄養分がよそからやってくる(与えられる)からです。根を伸ばす、根を張るというのは栄養分を吸収するための活動であり、大きく根を張ることで木の成長を支えるわけです。根を張ることで、大地にしっかりと立つ、つまり木がじょうぶになる。根を伸ばさないで栄養分がとれるから、どんどん木は高くなる。つまり、頭でっかちになる。そして、ちょっと風が吹いたり、地震が来ると見事に倒れるんです。年中、そんな光景をみるでしょう。

  この先はいわなくてもいい話ですが、せっかくだから…。

 「日本人の子供の教育のしかたと一緒でっしゃろ。こんなですから、ちょっと大きな風が吹いたら、ゴローンとひっくり返る。これは根張りがないからです。伸ばす必要がないのやから。伸ばさなくても餌をもらえるんやから。人間はいらんことばっかりしてるんですわ。そやから、わしは相手のこと、植物のことを考えて人間がやれていうんですわ」

植藤造園

 植物に対しても動物に対しても人間は自分の好き放題をして、相手の気持ちを忖度(そんたく)しない。得手勝手というのはまさに人間のことをいうのでしょう。勝手にいじり回して、その挙げ句に放り出す。放り出された方は、独り立ちして生きていけなくされてしまっているのだから、始末に悪い。人にも動物にも植物にも、まったくおなじことを人間はしているのです。飽きたら捨てる、いらなくなったら捨てる。かまいすぎて、いじりすぎて、この先は自分でやれといわれても、どうしようもないのです。

 転ばぬ先の杖、これが余計なことなのですが、親切と勘違いしている人間が多すぎます。自分の都合で杖を与えるのですが、与えられた方は杖なしでは生きていけなくなる。

 小さな木は小さいなりに、大きな木は大きいなりに根を張る、そしてその根でしっかりと土をつかみ、その根の先からから栄養を吸収する。そのように人間も育ちたいのですよ。

 「根を張る」は「根張る」です、つまりは「ねばる」なんだね。

 (ぼくは小学生のころ、京都の山越(やまごえ)にあった佐野さんの苗床によく行きました。いまでは見上げるような立派な枝垂れになった桜も、まだまだ小さな苗だったころの話です。現在京都の円山公園の枝垂れ桜も佐野さんの手になるものです、植えたのは先代でしたが。佐野さんが生まれた記念に植樹したそうです。)

仁和寺

 佐野さんは代々の植木屋さんで「植藤(うえとう)」という屋号を名のった仁和寺のお抱え植木職人でした。ぼくは自分でも「サクラ人間」というほどにサクラ好きです。(学生時代には新宿御苑にしばしば通いましたが、いま騒がれているのはおそらく別の「御苑」でしょう。あんなところで選挙運動するバカはいなかった時代でした)引用した著者の佐野さんはたぶん十六代目で、ぼくはその前の十五代の佐野藤右衛門さんからいろいろと「サクラ」にまつわるお話を聞きました。その影響で「サクラ人間」になったというわけ。ぼくはまだ小学生でしたよ。桜の話はつきないが…。間もなく花見時ですね。いつも、「惜しみつつあと幾年の桜花」(拙句)というのが口癖になりました。

投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)