「法痴」のデタラメ

 さて、我々は心理学者にも会いました。彼らは明らかに、とても善い人たちで、非常にリベラルで、物事を十分公正に見ることのできる人たちでした。しかし、もし彼らにとって、他人の財産を盗むことや、銀行強盗を犯すことや、売春することや、人を殺すことや、自分自身男であるのに男と肉体関係を持つなどといった行為全てが、ことごとく心理学上の問題で、心理学者は個々の人々がその問題を解決するのを手助けしなければならないというのなら、それは心理学者が本質的にシステムの共犯者であるという徴ではないでしょうか。軽罪を犯すとか、重罪を犯すということは、要するに、あまりにも基本的なやり方で問題にすることなのだという事実を、心理学者は隠蔽しようとしているのではないでしょうか。それが非常に基本的なやり方であるために、それが社会問題であることを我々は忘れてしまうのです。それが道徳的問題であるかのような印象を持ったり、諸個人の権利に関係しているかのような印象を持ったりするのです…。(「フーコー「アッティカ刑務所について」1974年)

 法律違反は「犯罪」である、あるいは「犯罪」は法律違反である。どっちなんですか。どっちが先にあるのですか。世の中には善人と悪人、加害者と被害者の二種類の人間がいると、しばしば考えられてきました。上の文章はフーコー(1926-84)がフランスの刑務所改革に積極的に荷担していた時代に述べられた意見です。まるで犯罪者を擁護していると思われるでしょう。たしかに当時もフランスではそのように見られて、フーコーたちは非難されたのです。(フーコーについては、日をおいて後述したいと考えています)

 世の中にはさまざまなシステムが機能しています。したがってある部分だけをとりだして、それについてものをいったり、それを「いいもの」にしようとしていじることはそもそも不可能だといえます。刑務所だけを問題にして、そこに入れられている囚人は犯罪者だといってみたり、学校制度をそれだけで変えようとしてもできない相談だということです。 

 フーコーの指摘も社会システム、資本主義経済システムの問題として刑務所(「監視と処罰の制度」)をとりあげているのです。罪を犯すことは悪いことだという「道徳の問題」から人間を裁くならば、その罪を犯した個人の性格や生活に原因があるはずだから、犯罪者をどこかに隔離(追放・排除)すれば、問題の原因は消えてしまうという理屈。問題児は追放してしまえ、というわけですが。はたして、それで解決するのでしょうか。「それが非常に基本的なやり方であるために、それが社会問題であることを我々は忘れてしまうのです」この言いかたでなにを言おうとしたのか。個々の人間(犯罪者とされている)の行為の問題ではなく、むしろ社会システムの問題なのだといって、さて通じますか。ここはきわめて大切なところですね。「法が犯罪者を作る」といって…。

 さまざまな犯罪防止のために法律が作られます。法の制定以前にはまったく問題にならなかった行為も、いったん法律が制定されれば犯罪にされます。「株の時間外取引」は問題なしだった。でも、いったんある人たちにとって不都合だと見なされれば、(法律が急いで作られて)その行為は「法律違反」として裁かれるようになります。法によって犯罪者は作られるのです。今は法さえ作らないで、舌先三寸で法行為を左右している。これは犯罪じゃないのですか。

 法治国という言葉(実態)があります。いくつもの意味にとらえられますが、この島ではどうでしょうか。政治家は自分たちの都合のいいように「政治資金規正法」などという法律を作ります。だからこの国は法治国だといえるか。残念ながら、ノーです。あるいは特定の企業や集団に有利なように法律が作られる場合も法治国とはいわないはずです。法はだれにも適応されて、はじめて法の主意を得る。

 「俺は法解釈を変えた」から、それで法が施行されて問題なんかあるものか、と嘯く。この島国は一人の無謀・無能・無恥な人物の傍若無人な振る舞いで「放置国」「法痴国」に堕してあえいでいます。投薬する薬はあるのか。あったとして、薬の効き目はあるのか。

投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)