学校教育を支配している原理は「競争主義」の原理だといわれます。それは個々人の能力や努力にのみ選別化の基準をおくという(仮象の)ものです。学力が高い、成績が優れているとされる子どもはそれだけ能力を発揮したからであり、反対に成績の振るわない子どもは能力や努力の面で劣っているとされ、その結果については本人も否応なしに納得させられるのです。「やればだれだってできる」(ホントか)と教師はいいます。そして子どもは「「できなかったのは、自分がやらなかったからだ」と神妙に納得させられるのです。競争原理とはそのような成績の差を正当化する威力をもっているかのように個人に対して作用する。どの子も同じ条件で五〇メートル競走をしているのだから、結果に遅速の差が出るのはあたりまえだというわけです。この原理は相当に長く威力をもちつづけてきたようです。これが「センス」なんですね。ぼくはいつも振るわないガキでしたから、少しは反省したかと思いきや、「センス」には一向に関心が向きませんでした。
「能力主義の社会秩序とその教育体系は抜きさしならない二律背反を含んでいる。なぜというに、大多数は敗者となる定めであるにもかかわらず、全員が同一のイデオロギーに与しつつ競い合うことが求められているのだから」と指摘するのは英国の社会学者ウィリスです。彼は重要な本をいくつも出版していますが、ぼくがよく引用(上にも引きました)するのは邦訳『ハマータウンの野郎ども』(筑摩学芸文庫)でした。学校の「現実」が活写されすぎているほど。(英国ですが)


だれでも一番になれないことは明白であるにもかかわらず、「やればできる」という決まり文句を教師は口にします。やればやっただけの成果があらわれる、そのような場面はいくらでもあるでしょう。しかし、コンテストではだれかが一番になれば、だれかは二番になれても、けっして一番にはなれない。つまり学校の「勉強」はコンテストになっているんだ。試験のできばえを他人と競うコンテストであるなら、とにかく勝負に勝たなければならないということになります。勝てば誰彼となく評価してくれる期待感がある。自分がかしこくなるための学習ではなく、だれかに勝つための学習とはいかにも経済競争に似ています。ぼくはいつでも競争から離脱しようとしてきた。その程度の「勉強」かよ、という捨て台詞のようなものを吐きながら、「その気になれば、いつだってできるぜ」といっていました。ついぞ、「その気に」はなれなかったが。コンクールというのも同じですね。ショパンコンクールだのチャイコフスキーコンクールって、マジですか、とぼくはいまでも不信感でいっぱいです。一位のショパンと二位のショパンにある差ってなんだ。

学校の内外で必要以上に数字(成績)が重んじられるのを手はじめに、どこまでいっても競争原理がはたらいているのが学校教育の実情です。これを「学校化国家」といったらどうか。くりかえしになりますが、産業経済側で重んじられる価値観こそ学校が必死ですがる教義となっているのです。個々の子どもたちがどれだけ多量にこの価値観を自分のものにするか、それを競わせるための競争主義だといってもいい。まるで食うか食われるか、勝つか負けるかの生存競争の闘争場(アリーナ)となっているのが教室だといっても過言ではありません。これが百年余も続いてるんです。
資本主義的の経済システムが機能すればするほど、原理的にも実際的にも経済資本(典型はカネだ)の分配において不平等を生みだすのはさけられない。産業経済体制の諸々の制度は、根本的には、社会的・経済的不平等をもたらすような構造になっているのです。市場をめぐる利潤獲得競争が(表面上は)資本主義の真骨頂だとされるなら、勝者と敗者が明確に生みだされるのは当然の道理です。しかし、現状は純粋な競争主義に基づいてはいない。大きなちからをもつ企業は、さまざまな政治上・政策上の便宜を得てさらにいっそう大きなちからをもつように仕組まれています。(常習的な便宜供与さ)消費税を全員に負担させて、そこから大企業の法人税の大減税をしようなどというのはその見本ですよ。みんなから取って、ごく一部の者どもで山分け、これが列島の経済・政治の実情だといえるでしょ。××ミックスですな。
学校でも同じような現象が見られます。成績競争に早い段階で勝利する子どもは、その勝利によってさらに競争を有利に展開することができます。その反対に、成績が振るわないと判断された子どもはいっそう不利な競争を強いられる。教育という「インフラ」に金をかけられるかどうかが、子どもの成績を左右するのです。「格差社会」というけど、実際は「格差国家」なんだ。国家当局によって格差は作り出されているから。

さまざまな学校段階に一貫している性格があります。それはどんな学校もさらにその先にある学校への準備教育が主流となっているという点です。そして最終的には就業・就職のための準備教育こそが学校の最大の機能であることになります。これがその時々の学校教育の必要・必然性をいちじるしく阻害し、歪曲していることはいうまでもありません。小学校は中学校の、中学校は高等学校の、高等学校は大学のための「下請け教育」を担わされているのです。まるで明日のために今日があり、明後日のために明日があるといわぬばかりです。「下請けいじめ」は経済界だけの悲劇ではない。ここに教師の苦労と頽廃の蔓延(はびこ)る理由があるのです。(わかるでしょ。ここでは、詳しくは述べない)
子どもは幼く弱い存在であり、保護し監督しなければならないという子ども観は古いものではありません。おそらくこの列島でも江戸時代以前にさかのぼらないんじゃないですか。そして、大人と子どもという区別がされたときに「子どもは発見された」といってもいいでしょう。大人になるため、社会へでるための準備を周到にかさねるために学校教育が始まったともいえます。(子どもと大人という区分はいつ始まったのか。これもまた大事な問題です。子どもは「小さな大人」という子供観が生きていた時期がどこの地域にもありました)
そのような準備教育にはふたつの側面が見られます。
そのひとつは、いわば教育の社会的な側面ともいえるもので、社会に必要とされる多様な労働力の確保と生産性向上のための教育機能です。そのことによって、たえず物的資本の増大が期待されるからです。いい人材が集められれば、市場競争において有利に商売を展開できるからです。
もうひとつの側面とは、いわば個人的なものです。物的資本(典型はカネ)が増大することによって、個人生活における消費は拡大し、生活水準の上昇が約束されるからです。これを見ても、学校教育はけっして子ども自身の成長や発達に焦点をあてて実行されるのではないのが明らかです。

これを学校教育が担っている統合化機能ということもできるでしょう。統合(integration)というのは社会のさまざまな集団(セクター)が求めている人材を適切に送りこむことです。単純に社会化するというのではなく、それぞれの需要(必要)に見あった人材(能力)を供給するといってもいい。そのために学校はいろいろな訓練を施して、既存の社会秩序を子どもたちに抵抗なく受けいれさせようとする。人材配置機能ですね。学校が毎日やっていることはそんなことなんです。けっして子どもや親のためなんかじゃありませんよ。「金の卵」ってなんだ?「就職氷河期」だって?
この数日、降ってわいたように列島全体が危機に襲われ、それを退治するために「鉄面皮仮面」がやおら登場し、危機から人民の身を守るため、にわか仕立ての「非常事態宣言」もどきを出しました。まるで「危機状況」の下手な「自作自演」であり、自己救済(青汁ではない)本意のために列島の大半の住民を巻き込むような鼻息の荒さです。飛沫感染に十分に注意したいね。人民のいのちを尊重しているのかと問うのも恥ずかしい売り込み政治だというほかない。このあわれな状況の収束はいつ到来するのか。願わくば、五輪前に来てほしいね。(「学校」は「列島」の敗戦後と同じで、今でも「独立」なんかできてないよ)