今日は早朝からはっきりしない雨が降りつづいています。このところ、ぼくはほぼ五時には起床です。ラッパはなりません。ウグイスも啼きません、(大変心配しています。昨秋の台風襲来で塒(ねぐら)を破壊されたのか、あるいは世間(人界)にいや気がさして行方をくらましたのか)もう彌生ですのに。雨は嫌いじゃないんですが、普段のように外の作業ができない。だから室内でパソコンをいじりまわすことになります。ついでのように、駄文づくりとはよくない仕業ですが、仕方ありませんね。

まあ、好きだった柳田国男さん(1875-1962)の文章でも引き写してみましょう。柳田さんについてはホントに早くから興味をいだき、つまらない本まで書きました。「碩学」という語も死語になりましたが、彼は正真正銘のソレでした。いい面悪い面の二面を持った人として、ぼくは時間をかけて彼から学んだといえます。学び方がよくなかったせいで内容はからきし無でしたけれど。それにしても、柳田さんもはるか彼方に遠ざかってしまった感がぬぐえないのはどうしたことか。歴史の果て、神話の世界か。
「ヤラヒは少なくとも後から追い立て突き出すことでありまして、ちょうど今日の教育というものゝ、前に立って引張って行こうとするのとは、まるで正反対の方法であった…人を人並みにして人生に送り出す期限は、もとはご承知の通り思い切って早いものでした。…人を成人にする大切な知識の中には、家では与えることの出来ぬものが実は幾つもありました。そういう点については世間が教育し、又本人が自分の責任で修養したのであります。ヤラフというのは何か過酷のようにも聞こえますが、どこかに区切りをつけぬと、いつまでも一人立ちが出来ぬのみならず、親より倍優りな者を作り上げことも出来なかったのであります」(柳田国男「四鳥のわかれ」)(*ヤラヒはヤラフ(遣る・やる)の変化)
いまでは「児やらひ」などという語は死語になりました。その意味は「児やらひ」という、一人の幼い者をいろいろな人々(世間)がそれぞれに関与することによって、ついには「一人前」に育て上げるという教育がみられなくなったということです。(*いちにん‐まえ【一人前】①一人に割り当てるべき分量。一人分。②おとなとなること。また、おとなとして扱われること。③人並に技芸などを習得したこと。)(広辞苑)

柳田さんの文章を熟読してほしいですね。「人を人並みにして人生に送り出す期限は、もとはご承知の通り思い切って早いものでした」ということがおわかりでしょうか。早い者は5歳や7歳で一人前になるべく世に出た。これは洋の東西を問わないことです。今日は大学教育(?)が浸透して、どなたも大学に行こうとされます。それ自体は悪いことじゃないでしょうが、でも、社会に出るのは早くて20歳を過ぎてから。この20年以上をどのように育てられたかが、その後の人生にはっきりと影響を与えます。
とにかく、人を一人前(大人)にするような教育は、特定の場面を除いて、ほとんどなくなりました。熟練とか習熟といった尺度が一人前になるまでの測定権を受け持っていたのに、それが社会から失われてしまった結果、いまでは年齢だけが「大人か子どもか」を分けるにすぎないのです。20歳(一面では18歳に)だから大人というのは法律上の区切りで、実態とはかけ離れていることは否定できません。
では、どうしてそのような教育の形態がなくなってしまったのか。その理由はいくつでも数えることはできそうですが、いちばんの問題は子どもの教育が学校によって独占されたという事実です。各地各様の生産や労働の風土に応じて産育・養育や教育が行われていた、その意味では文字どおりに「土地の力(文化)」によって人間も動物も植物も(すなわちあらゆる生命が)育てられていたのです。これこそが地域主義というもので、学校教育が普及させられることによって、土地に根ざした地域主義が壊滅させられたんですね。ブルドーザーで列島が均(なら)された。

「人が世に立ち一人前となるが為に、かねて定まった試験を経なければならぬことは、昔は却って今よりも数しげく、又例外の無いものだったらしいが、それを窄(せま)き門などと歎く者の無かったのは、是非通してやりたいという情熱が盈(み)ち溢(あふ)れ、従って又通って行く者の悦びであったからである。西洋の学者は第二の誕生などと称して、成人式だけをひどく重々しく見るようだが、少くとも我等の歴史に於ては、この段階は幾つもあって、それが必ずしも呪法を主たる目的としたものでは無かった。人間の生の営みを宗教倫理、政治経済等々に分類して考えることは、それこそ現代人だけの智巧であって、何千年とも知れない過去社会には、それがすべて融合して、渾然(こんぜん)たる『此の世』というものを作って居た」(柳田国男「社会と子ども」)
「かねて定まった試験」とはマークシートを塗りつぶすよう、不真面目なものではなかったことだけはたしかです。実際にやってみる、モノを作るとか作業をこなすとかして、実用に供することがなければ周りから認められなかったのです。今のように、年を重ねれば、半人前であろうが「大人になれる」というのは周りも困るでしょうけど、本人にはもっと辛いことだと思います。自分が大人であるという標(しるし)はどこにあるのか、まことに頼りのないことだからです。今日から君は成人だ、といわれてその気になったところで、中味が空っぽじゃどうしようもない。その気になって空騒ぎをするしかないというのも気の毒なこと。「成人式」の滑稽さ。

ぐずぐずとつまらないことをいっていますが、学校(教育)は一人の人間にどんな仕打ちをしてきたかをはっきりととらえなおす必要があるといいたいがためです。それだけのことではあっても、じゅうぶんに理解してもらえないのは、学校教育によって恩恵や利益を得たと考えている(錯覚している)人間が相当に多いからです。国家や社会にとって学校教育を支配し、じゅうぶんに機能させることはみずからの命運のためには決定的な意味を持っていました。でも幸か不幸か、国家と個人とは、本来はぴったり一致しないものなのです。身体に服を合わせるのか、服に身体を合わせるのか。そんなの決まってるじゃんよ、と大きな声で言いたいんですが。
となれば、国家の要求を個人の必要に合わせるのか、個人の欲求を国家の要請に合致させるのかという選択肢がでてきそうですが、それは言葉だけの話。事実は長い歴史が語っているとおりです。こんなところから、おそらく人権(人間性回復)の問題がその姿を現してきたんじゃないですか。まだまだ、ですね。(柳田国男はどこにいる)