注意しなさい

《私たちは、両親や小学校の先生から「注意しなさい」(Pay Attention !)と言われて育つ。子供の頃より、この同じ言葉を強くあるいは優しく命じられながら、大人になっていく。やがては慣れて聞き流すようになるかもしれない。だが、人生においてこれは非常に大事なことである。なぜなら、注意を払うとは、心のエネルギーをどう使うかということであり、このエネルギーの使い方の如何が、自らをどのような自己へと育てるのか、どのような人間になることを学ぶのかを決めるからである》(ベラ―他著『善い社会』みすず書房、2000年刊)

 アメリカの社会学者たちが「善い社会とは」どんな社会のことだろうと、と数人がかりで著わしたのがこの書物です。ぼくは再読三読に及んだ記憶があります。もちろんことはコメ国の話ですから、この島にただちに適応できるものではないのは当然です。ぼくがなるほどと思ったのは、「引用」部分でした。「注意しなさい」(原文は Pay Attention !)ほとんどの人は「注意する」のは他の人に対してだと思っているでしょう。それでまちがいなさそうですが、ぼくはそうじゃないと考えているのです。ベラーたちも「注意しなさい」というのは親や教師からだが、この「注意する」対象は「自分にに対して」なんですよ。

 「(自分に対して)注意せよ」というわけです。親や教師が子どもや生徒に何かを言うのは「注意」ではなく「文句」だったり「命令」だったするのがほとんどじゃないです。どんなに大事なことを言われも、不注意だったらどうなりますか。結局は自分に「注意深く」ならなければ、すべてがご破算になるでしょう。「注意」に対して「不注意」でうけとめるのが大半でしょ。

 十年にはならないかもしれませんが、後輩(県の教委にいました)に頼まれて、ある高校に呼ばれたことがあります。再編(新設)された公立学校でした。教職員に何か話をせよというので、真夏の猛暑のさなか(たしかお盆の十五日だった)、三浦半島の西側にあった学校に出向いた。五十人ほどの教職員がいたと思います。校内研修の一環だというお話でしたが、ぼくに話せとは勇気があるなと思った、その後輩はその数年後に自死された。

 ぼくは例によって無駄話に終始しました。話したポイントはただ一つ、教師も生徒も「自分に注意深くなろう」でした。さらには、「注意はだれかにするものだと思われているでしょうが、それはまちがい」「自分にこそ注意しなければならない」と。制限時間が来たので急いで席を立って「呑み屋」に駆けつけようとしたら、その浅ましさを見破られたのか、終了宣言を阻止するかの如くに、一人の教員が質問されました。きっと来るだろうと予測していたし、また、そうでなければ「面白くねえ」とぼくは読んでいたから、べつに驚かなかった。「いまあなたは、注意は人にするものではないといわれたが、われわれは毎日のように生徒たちに注意している、だからあなたの話には納得がいかない」というのです。呑みたい一心で、答えは自分で考えてほしいですね。本日はこれまでと、部屋を出てしまいました。自分で考えてよ、めんどうな。

 後日談です。研修会なるものが終わって間もなしに、別の友人(県立高校の校長をされた方)から速達便が届いた。「呑み代を返せ」とでもいってきたのかと開封すると、次のような顛末が書いてありました。ぼくに質問した教員が、会を終えて帰宅するために学校から200メートルほど離れたバス停に急いだ。校門を出たところで、バスが来るのが見えた。それを逃すと待ち時間がかかる。あわてて駆けつけ飛び乗ろうとした瞬間、石につまずき転んでしまった。その拍子に口のあたりを強打(地面で)して「前歯が二本折れてしまった」。「注意は自分にするものだ」ということが痛いほどわかった、この前の人間(ぼく)によろしく伝えてくれと頼まれたそうです。

 他人にするのは「命令」「小言」「文句」などのたぐいで、けっして「注意」ではなさそうです。「気をつけて下さい」「風邪をひかないでね」「勉強しろよ」などというのは注意じゃない。忠告だったり、催促だったり、助言だったりするのです。いかに重要な話(忠告)をされても、それを受け取る側が無関心だったり無視したらどうなりますか。「自分に注意しなさい」と自分にいつでも言えることが肝心なんじゃありませんか。

 これまでの長い生活の連続でぼくが犯した失敗やまちがいのほとんどすべては「不注意」から生じたものです。階段から転び落ちるのも不注意、下手をすればいのちとりになります。不注意から不幸になる例はいくらでもある。避けられる不幸はさける、注意するというカネのかからない方法で。不幸になりたい人間はいないのだから、「注意せよ、自分」といえる態度を育てることは、あらゆる教育の根底になければならないですね。わがまま、いじわる、ねたみ、自己卑下…。すべては「注意力が足りない」状態から生まれるのです。あわててしまって 35×7=235 とまちがえるのと、信号を見落として車で誰かに怪我をさせるというまちがいは同じ根っこを持ちます。自分を制御する働きがなかったからです。あらゆる勉強も子どもの性格を鍛える(自制する力・注意力)ための手段だととらえる必要がありそうです。ぼくはこんな姿勢で子どもたちとつきあってきました。

 だから、ぼくは「注意するとは自分に対する期待だ」と言いつづけてきました。こんなつまらないことに腹を立ててどうする、君はそんなところでうろうろする人じゃないよ、と自分に向かって励ませるる人になりたいと願いつづけてきました。幼児や児童ではそれは簡単じゃないと思うから、教師がそばにいるんでしょ。怒ったり、脅したりするための対象じゃないね。高まれよ、○○くんと、ひそかだけれど強い期待をもってつきあえる人が教師なんだと思うよ。点数を上げるのは教師の仕事とみなすのは下の下。子どものためなどといいながら、じつはおのれを高く評価してもらうために子どもや教育を利用するのは、下の下の下。自分にとって最良の教師は自分だろうと思う、ちがいますか。

津軽弁です

 別にややこしい話をしているのではない。もし分かりづらいなら、ぼくの雑文のせいで、お詫びします。「もっと明確な文を書けよ、自分」かな。どこかの教師はこの事情を納得するのに転んで前歯二本折りました。痛くも高くもつきました。こんな経験が身になるんでしょうね。経験から学ぶ。「注意一秒、怪我一生」は交通事故対策だけのもではない。(泣くでねえ、泣き虫のわれ!)