「教えられたい」は甘えたい

 わからないことを聞くときには

 修業中の弟子が棟梁(とうりょう・親方)に「これはどうするんでしょう」と尋ねたら、必ず聞きかえされた。「君はどう思っているの?」「それはこうだ」とはけっして言わない。だから棟梁には下手(不用意)に質問できなかった。まちがっているかもしれないけど、「自分はこう思う」というのをもっていないと質問できなかったそうです。

西岡常一さん

 この棟梁は「最後の宮大工」と称された西岡常一(1908-1995)さんでした。斑鳩の里(法隆寺)所属の大工(祖父・父につぐ三代目)。西岡さんは自分の息子さんたちにも同じ態度をとられていた。宿題が分からないから、聞きに行くと「お前の考えは?」と必ず聞きかえされたというのです。また「あれはどうなっていたのや」と反対に質問されたそうです。

 教えないで教える

 棟梁が弟子を育てるのは「見本を示す」だけです。こうしなさい、ああしなさいなどとはいわない。たとえばカンナ(鉋)を研(と)ぐのも「こういうふうに研ぐのや」と教えない。「こないふうに削れるように研いでみなさい」というだけです。西岡さんのお爺さんも宮大工でしたが、あるとき孫の西岡さんに「鉋(かんな)はこんなふうに削るのや」といって、向こう側が透き通ってみえるほどに薄くて美しい鉋屑(かんなくず)を放り投げただけで、どこかへいってしまったそうです。

法隆寺遠景

 弟子になるほうは大工になろうという気持ちがありますが、それに加えて「教えてもらいたい」という「衣」みたいなものももっている。それが修業の邪魔になるのです。だから自分でこの衣を解か(脱が)なければならないのです。自分で解こうという心構えがないと、ものは正しく伝わらないと西岡さんはいわれました。

 「学校や今の教育は違いますな。まず手取り足取り教えますな。子供がわからな、教え方が悪いと言いますしな。それでそのときはこないする、こんなときはこうやったほうがいいと、こと細こうに教えますな」

 「私らはいっさいそんなことはしません。…こんなですから今の教育に浸った人たちは何と理不尽で、遠まわりな古くさいもんやと思いますやろな。しかし、これが一番の早道ですな。へ理屈を並べるよりも、本当に伝えようと思ったら、このほうがいいんです。形式的に暗記して、そのことの意味がわからんでも、そのときさえ覚えた気になればいいというんなら言葉だけで伝えてもいいんです。親方がいったことを弟子が繰り返していう。それだけでいいし、それやったら本でも読んでいればいいんです。棟梁なんていりませんな」「大工はそのときの試験に通ればいいというんやないです」(西岡常一『木のいのち 木のこころ』新潮OH文庫)

 教えてもらいたいは甘えのあらわれ

「教えてもらいたい」という「衣」を分厚く着せるのが学校であり、上手にたくさんの「衣」を着た子が優等生というわけです。「衣」とは「化粧」みたいなもので、いつも厚化粧していると、自分のスッピン(素顔)がわからなくなります。だからよけいに塗りたくることになるのでしょう。でもむりにはりつけた化粧はいつかは必ずはげおちるものでもあります。「教えられたい」というのは一種の甘えだとぼくは経験してきた。

薬師寺西塔

「自分はこう思う」「自分の考えはこれです」という当てもなしに、相手からの答えを鵜呑みにするだけ、こんな教育を何十年もつづけることで、はたしてその人の何が育つというのでしょうか。(あんまり立派に育ってしまうと困る人がいるのでしょう。だから、ほどほどに、言うことを聞く「人材を養成」するのがこの島の学校の寸法にピタリと合うのだね。でも、寸法があわなければどうする、なに自分流で何とか生きる知恵をつけるものですよ、人間は。でも、それには辛抱がないと。

 西岡常一という棟梁はとても大切な「伝説の人」であり続けています。ぼくは一面識もなく、彼の仕事場だった法隆寺や薬師寺などの建築を何度もなんども眺め、また彼が残した何冊かの書物を通して、知るばかりだったが、それでじゅうぶんでした。いつのことだか、志賀直哉という作家が「法隆寺はだれが作ったか、作者(大工)がわからないが、建物を見ているだけでじゅうぶんである」という意味のことを話していたのを記憶している。小学生のころからぼくは奈良に行っていました。

 西岡さんが薬師寺の西塔の再建がなり、お披露目をした時だったか、東塔とは基壇の高さや軒の長さ、その他さまざまな点でちがいが目立っていた。心配ご無用、何百年かすれば両塔は同じようになるというのが西岡さんの答えだった。法隆寺は木造で1300年以上が経過している。おそらく創建時に朝鮮半島を渡ってきた大工たちはそんなに長く建物がもつとは考えていなかったし、ましてや千年以上もたせる建物を作ろうとしたはずがない。日々の建築に精魂を傾けた結果が、ぼくたちの眼前に建っているというのです。まさしく、「現場に生きる」人々の真骨頂だったと思いますね。

 西岡さんの死は、掛け値なしの文化財の喪失であったと素人ながらに、つくづく実感しました。機会を見つけてまた彼について騙りたいですね。ぼくは少年時から、斑鳩の里に何度通ったことか。大工になりたいと本気で考えていた時期がありました。身近に棟梁がいたからでもあり、寺をはじめ建築物を見るのがことのほか好きだったからでした。(信仰心なき寺社建築好き)

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。