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私は、あなたの信じていることがまちがいだと信じる権利をもつ。あなたには私がまちがっているように思えるとしても、私はまちがう権利をもつし、その権利をゆずりわたすことはできない。(ホウレィス・カレン 1882-1974)
カレンはドイツ生まれのユダヤ人哲学者。長くアメリカのいくつかの大学で哲学を教授した人です。彼については不勉強でほとんどぼくは知るところがありません。九十を超えて生きられたから、大変な長寿でした。上に引いた言葉は何かの折に書き留めておいたものです。ちょっと前に「まちがう権利」などということをことさらに述べる機会をもったので、「信じる権利」に関しても雑文をしたためてみようか、と気迷いをおこしたわけです。なに、いつも通りで、大したことは言えません。ユダヤ人哲学者でいうと、ブーバーを想起します。ていねいに読んだ記憶がその内容とともに蘇ってくるようです。『我と汝』などです。
哲学や思想は、当の人間の感情の裏打ちがないと作文、理屈でしかなくなります。哲学研究をする人はたくさんいます。けれども、これぞ哲学者といえる人はまずいないとぼくは思っています。ひょっとすると、どこにでも存在している・いたにちがいないんでしょうね。ぼくの目が曇っているから見えないんだと思います。歴史の真ん中にも、また歴史の彼方にもたくさんいたのではないかという気もします。歴史を学ぶ意味はそんな人に出会う機会を求めるからじゃないかといいたいですね。営々と重ねられた経験こそが、その人の哲学や思想の錘(おもり)となるような気もします。(だからぼくなどは、とてもとても哲学なんて語る力も資格もないのです)

信じる権利とまちがえる権利。この二つはだれにも備わっていると認めなければ、何事も始まらない性質のものです。「平等」や「自由」なども同じです。「権利」ということについてその根拠は何かといえば、それほど明確なものではないというほかありません。ここに石があるでしょう、と手でも目でも確認できますが、「権利」はそうじゃない。そんなものはないよ、といわれればそれまで。人命は地球よりも重いといくらいったところで、だれかれに「いのちを尊重する」受け皿ですか、その用意がなければ、それはつねに風前の灯火でしょう。消えかかるろうそくの炎のような、危ういいのちはいたるところに見られます。潰え去ってしまういのちも数限りなくあります。

昨日でしたか、千葉地裁で自分の娘を虐待死させた父親の裁判が行われていました。事件発生以来一年二か月ほど経過しましたが、その間父親に虐待された女児が、最後の望みともとれる、通っていた学校教師に訴えた文章も公開されています。母親はすでにわが子を救うための気力も体力も夫から奪われていたとされます。法廷で当の女児の祖母や妹が、「Yちゃんを返して」と叫ぶ声が鳴り響いたと報道で出ていました。「許せ、家族に入れろ」と親に訴える声が法廷に聞こえたそうです。それをこの父親はどういう気持ちでカメラを回していたのか。「生きる権利」「教育を受ける権利」と憲法に謳われたところで、子どものその権利を保障(死守)する親や行政の保証がなければ、絵に描いた餅にもならないのは当然です。それにしても、と思う。
虐待死、心愛さん「毎日が地獄」 千葉地裁公判で母が証言
《千葉県野田市立小4年の栗原心愛さん=当時(10)=を虐待し死なせたとして、傷害致死罪などに問われた父勇一郎被告(42)の裁判員裁判公判が26日、千葉地裁(前田巌裁判長)で開かれた。心愛さんの母(33)は、2017年7月に沖縄県から千葉県に引っ越した直後の生活について心愛さんから「『毎日が地獄だった』と言われた」と証言した。
心愛さんと被告は先に野田市に転居し、母は同年9月ごろから同居。その間の生活について母が心愛さんに尋ねると「夜中パパに起こされたり立たされたりした。妹の世話をしろとも言われた」などと話したという。》(共同通信・2020/02/26 12:43)
与太話です。もう何年も前に、ぼくはこの「教育を受ける権利」について意見を述べよと国会(衆議院憲法調査会)というもっとも忌み嫌う場所に出向きました。ぼくの友人の口添え(依頼)でした。(言下に)断ればよかったのですが、これも「魔が差したのか」出かけてしまいました。人がまちがえるときは、きっと「魔が差し」ますね。(行かないのが「正解」だったと、その時も今も思っています)人間は「まちがえる存在」だ。でも、このぼくのまちがいは権利ではなく、ぼくの「不注意からのまちがい」でした。後悔、後悔。「後悔を先に立たして後から見れば、杖を突いたり転んだり」というのは志ん生師匠です。案にたがわず、いやなところでしたね、ぼくには。

いまはその話ではない。「信じる権利」です。権利が権利として価値があるのは、それを認める「義務」が履行されるからです。さきほどの「教育を受ける(子どもの)権利」もそれを保障する親や行政の「義務」が明らかに先行しなければどうにもしようがないでしょう。「信じる権利」で最初に想いだすのは「信教の自由」で、この価値は広く普及しています。だが、ここでカレン氏が言及したのはもっと別次元といっていいか、私人間的(表現は適切じゃありませんが)なものだと思われます。
あなたが言うことは正しい、と「信じる」「信じない」自由ということでしょう。「神に誓って、自分の言うことは正しい」というあなたの言を信じないというのも、一つの権利なんだというのです。これはどうですか。ぼくはあなたの意見に賛成はしない。でもあなたに対する敬意は失わないでいる。異説には反対もあれば賛成もある、でも異説を表明する人に対する敬意はなくならない、こんな対人関係こそが求められるのではないですか。たがいを尊重するというのは、敬意をもって相対するという意味だとぼくは考えています。それがなくなれば、集団(社会)は異常な緊張をつねに持つのではないでしょうか。あるいは敵対関係が生まれるかもしれない。こんな事例は日常生活でしばしば経験するところでしょう。「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」ではあまりにも寂しい。

教育に寄せて、これを考えるとどうなりますか。行政が学校設備を整え、教師集団をそろえ、教科書等の条件を整備する「義務」をはたす。そのうえで、「保護する子女」の教育を享受する権利を実現するための親たちの「義務」が求められるのです。権利と義務の両面がそなわらなけれならないのはいうまでもないことです。「子どもの権利」は「親の義務」があってはじめて尊重されるのです。これが義務教育の根底を支えている。
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今この瞬間に、この島でも新型ウィルスの感染問題が緊迫した状態に置かれているのが身に迫って感じられます。「国民の生命・財産」を守るべき主体がまじめさを欠いたままで、口先だけの言葉遊びで、それをごまかそうとしても、ぼくたちがさらされている危機は消えない。許せないことだらけの政府をはじめとする政治家への不信の念は頂点に達しているにちがいない。
おのれがやっていることに対する自覚があるのかないのか。「おのれ」がしかるべき地位にある人物ならなおさらに、この権利と義務の問題を真剣に受け止めるべきだというほかない。「最要路の御仁」は「責任」ということばを盛んに口にしてきたが、一度だって「責任を果たす」ということをしたことがないようです。「責任」を唱えればそれで「責任」が成就する(果たした)と思いこんでいる。この御仁には「責任」と釣り合うものがなんであるか、おそらくまったく無知(無恥)なんだ。無知ほど厚かましいものはないし、怖いものもない。責任と釣り合うもの、それは自由です。ある人が自由に判断し、それに基づいて行動したから、その人は責任を問われるのです。犬や猫には責任を問えないと思います。なぜなら、これはぼくの認識不足かもわかりませんが、犬猫には自分で判断し行動するという「自由」が認められない(とぼくは今のところはそのように考えている)からです。なにか問題が生じたら、飼い主が責任を問われる。この島の「裸の大将」に自由はあるか。議事堂内で、ひたすらかみさんを弁護・擁護・養護するばかりの「裸の大将」は自由なんだろうか。Power の虜となって、自らの欲望に縛られていないか。そんな輩に「君は自由である」とだれが証明できるのか。

これを書いている今、刻々とウィルス感染の実体が報道されています。ぼくが住んでいる地域でも感染者が出ていますし、そのために学校に休校措置が取られるといわれます。「責任」を口にする以上は、それを果たすということが伴わなければなんの意味もない。「放置国」「法痴国」と揶揄したくなるのはぼくの軽薄の故ですが、それ(軽薄性)を認めたうえで、このようにして「責任」をはたしたという行動がとられないなら、なんとする。集会は禁止、通勤も禁止、不要な外出も禁止。その他。はたしてそれが可能かどうか。為政者がしばしば見せたこれまでの国民軽視や無視のツケがこれ以上われわれに回ってこないことを祈るだけです。(「信じる自由」については、さらに考察します)