今までどれくらいぼくはまちがいを犯してきたか。大きなまちがいから些細なまちがいまで数えきれないまちがいを重ねてきた。そう考えれば、ぼくという人間は「まちがいでなりたっている」といわなければならない。反対に、ぼくからまちがいを除いたら、いったい何が後に残るのか。
まちがいには二通りあるように思います。第一は、個人が犯すまちがい。きっとこれはだれにも避けられないものでしょう。「私はまちがわない」という人はそれでまちがいを起こしています。「おれは嘘をついたことがない」という「嘘」を重ねるのに似ています。
脱線します。「クレタ人はみな嘘つきである」とクレタ島出身の哲学者エピメニデスは言ったとされます。これは有名な「パラドックス」です。「すべてのクレタ人が嘘つきだと、クレタの人であるエピメニデスは言った」というのですが、この「すべて」にエピメニデスも入るから、「クレタ人はみな嘘つきだ、と嘘つき島の人エピメニデスは言った」という矛盾。じっさいには「自分を除いて」クレタ人はみんな嘘つきだと彼は言ったとされます。ぼくがよく引き合いに出す「みなさまの」N H Kという、「みなさま」にぼくは断じて入りたくないし、入れられたくない。だから「みなさまの」は嘘じゃないかともいえるでしょ。なんだ、つまらない。

「人はみなまちがいを犯す」という言いかたも同様に誤解(まちがい)であり、まちがえない人もいるかもしれない、きっといるとぼくは考えています。幼児はどうか。赤ちゃんはどうか。そりゃあたりまえだよ。幼すぎてまちがいようがないよ。さらには…。赤ちゃんも幼児も人間ですよ。ならば、「人はみなまちがう」は正しくないことになる。理屈がへんてこになりましたが、要するに「たいていの人はまちがう」といえばいいだけです。ぼくもまちがう。あなたもまちがう。彼も、彼女も。ほとんどの人はまちがえる、と。ということは、まちがいは人間である証明じゃないですか。この「まちがいを犯す人間」こそが、親鸞が指摘するところの「悪人」なんだと思う。つまりはほとんどすべての人間。それに対して「まちがわない人」はいったいどこにいるのか。これまでに生きた人間の中でどれくらい(何人)いたか。それが「善人」というのでしょう。悪人正機説です。
第二のまちがいは、集団としてのまちがいです。自分はまちがわないと誓い、それを実行することがあり得るとして、「自分はまちがっていない」と信じていても、自分が属している集団がまちがえることもまた否定できません。表現を変えて言えば、「個人」としては立派でも、それが「集団」になると信じられないことをする場合もあるんじゃないか。「日本人」という集団を例にとれば明らかになるはずです。「一人の日本人」は正しくても、「日本人という集団」が大きなまちがいを犯す。「ぼくは戦争に反対だ」という個人を「挙国一致」で「聖戦遂行」が呑み込んでしまった。その「過ち」の延長線上にぼくたちはいる。
個人のまちがいに比べられないほど集団のまちがいの罪は大きい。
ここでは個人(自分)のまちがいを考えてみたい。行為なり考えが「まちがっている」という自覚が働くか否か、それが問題でしょう。まちがいだと知りながら「まちがう」ことはいくらでもある。もちろん正しい(まちがっていない)と思いながら「まちがう」方がはるかに多いのはいうまでもない。どちらも「まちがい」だから、許せない、認めないというのではない態度で、ぼくは「まちがい」に向き合いたい。「人を殺すのはよくない」とまずだれでもが思う。だが、「かっとなって殺人」を犯してしまう人は後を絶たない。「飲酒運転はだめ」と知りながら止められないで事故を起こす人もなくならない。ぼくがここで「まちがえる権利」というのはそのような「不注意なまちがい」を認めようとするからではありません。
場面を転回させます。学校という場所は「正しい答え」を詰めこむ「トランク」製造工場みたいですね。生徒は「トランク」(ではないといったのは、ホワイトヘッド)という芸名をつけられ、市場に売りにだされる。正解を知っているのは教師、それを受け入れるのが生徒の仕事。ある問題に「正解」は一つだけで、それを決めるのは教師です。〇か×か(正か誤か)。ニ択ですね。そこでは「まちがえる」ことはダメ、いけないこととされます。ぼくはまちがい人間でしたから、学校ではいけないこと、ダメなことばかりしていたことになります。ぼくにはまちがえる権利はみじんも認められていなかった。でも、それはぼくだけではなかったように思う。「勇気をもってまちがえ給え」という教師は皆無だった。

反対に「正解」を受け入れるのは義務でした。いったいだれが「正解」を「正解」として決定するのか。ぼくには疑問だらけだったし、そこから学校や教師に対して不信の念が生まれた。年とともに不信感は育っていった。高校・大学と進むにつれて、一人でやんなくちゃという姿勢・態度が身につくようになりました。よくわからない大学への入学と同時に不信感は絶頂に達したと思う。どんな問題にも「正解」があるというのは「まちがい」だ。「これしか」正しくない、「これだけ」が正しいというのはどこかに不正があるように思われてきます。いくらだって、他の道(やり方)があるじゃないか、とは考えない。なぜか。いくつも正解があったら、「試験(テスト)」がなりたたないから。ということは、「試験およびその結果である成績・点数のため」に「正解」は一つという欺瞞がまかりとおっていることになる。恐ろしいことですよ。人間社会で「答えは一つだけ」などまずないでしょう。いくつあるかもわからない。「正解」とされたものが「不正解」になることだってあるでしょ。ここで「センス」の鵺(ぬえ)のような正体が見えてきます。「鬼畜米英」は「最良の友好国」になるみたいに。豹変するのは君子ばかりではなさそうです。
「まちがえる」のは大切な「権利」だととらえたい。(「まちがい」そのものは権利じゃない)「まちがえるというプロセス」は思考の時間ですから、それを奪うとどうなるか。「まちがい」から探求が生まれる。まちがいは探求(学ぶこと)の母だか、父だか。要するに「親」だ。まちがいという「親」から「自立」(自信)という子が生まれる。まちがいのない人生があるとすれば、どんなものだろう。他人が用意した「正解」を受け入れるだけの生き方はつまらないと感じるし、だからぼくは拒否したい。まちがえることを恐れない。機械はまちがえるか。人間の操作の過ちや部品の故障はありますが、自分で判断して右を左ととりちがえないでしょう。言われたままに動くか動かないかだけです。まちがいを犯すのは人間だけだといいたい気がする。まちがいをするのは人間の証明じゃないかと、ぼくは経験してきた。「車は急に止まれない」というのも、車が止まるのではなく(人間が)車を止めるのでしょ。(もっとも、今では自動ブレーキなるものを装備した車が出現してきましたが)
人と同じ道を歩くなら、ぼくはできるだけ遠回りする。「歩く」は「考える」なのだという幸田文さんのひそみにならうのですが、バイパスをさがすよりも、脇道を見つけて回り道をする。それがぼくの歩き方でした。いまも変わらない。漱石さんじゃないけれど、ぼくは道草派です。寄り道大好き人間です。勤め人時代は連日連夜の寄り道・道草三昧境でした。とにかく帰宅に時間がかかりました。ほとんどが終電(午前零時)でしたから。以来、「午前さま」との名乗りをあげた。
だらだら話してますが、いいたいのは「学校を相対化する」必要性なんです。高校時代にぼくはよく早引きをしていました。教師から「今日もソータイカ」と皮肉られたのを思い出しました。「相対化」(相対= 他との関係の上に存在あるいは成立していること)(大辞泉)相対死ってのも。表と裏ではないが、二つがあってはじめて成り立つものがいくらもあります。教師だけでも生徒だけでも学校は成立しない。生徒がいるから教師の仕事が生まれると教師はあまり考えないんじゃないですか。
「絶対」ではないということです。唯我独尊とは無縁なんです、衆生の世界は。
ぼくがいるから学校があるという関係です。相対(そうたい。または、あいたい)は対等・平等という意味ですね。ぼくにとって学校は、ぼくの上でもなければ下でもない。ぼくと相対。ボチボチまたは、、チョボチョボですね。学校が個人を圧倒して呑み込む、強制して個人に命令する、独断的に個人を抹消する(個人の言い分・存在を無視するという意)などというのは、いうまでもなく「権利の侵害」です。面倒なところに来てしまいましたが、学校は個人に対して「絶対的存在」じゃないという咄です。

たしかに学校はあるが、おれ・わたしに命令する権限などあるものか、という姿勢。すこしヤンキー臭いけど、そういう態度は大事ですよ。自分を壊されてまで、学校に密着する・近づく必要なんかあるものですか。学校や教師と距離をとる。間合いですね、大事なのは。こういう学校観もまたぼくの「まちがえる権利」の行使から生まれました。ぼくの姿勢は多分まちがいだと取られるでしょう。それはわかるんです。この点において、だからぼくがは正しいというつもりもないんですね。正しい、まちがい、それもまた相対的なんですよ。学校とぼくとは五分五分なんだ。
子どもの「まちがえる権利」を認めなければ、子どもはまず考えたり判断したりする点でじゅうぶんに育ち切らないということだけがぼくの言い分なんです。利口な子は要領がいい、要領の良さはどこから生まれるか。遠回りをしない(考えたり迷ったり悩んだりしない)からです。二点間の最短距離を見つける能力(「学力」→「偏差値」)にたけているんですよ。でも「正解」のない世界(場面)で生きるとなると辛いでしょうね。 「まちがえる」のは「正解」を鵜呑みにするよりはるかに貴重な人間(子ども)の成長の機会なんだ。それはだれによっても奪われてはならない。「悪くない、まちがっていない(変な表現ですが)まちがい」というのがありますね。まちがいから真が飛び出すような、ね。「まちがいのおかげ」とか。「瓢箪から駒」なんていうものの比じゃありません。
「役に立つまちがい」とでも言いますか。「まちがってよかったというまちがい」です。この駄文が、そういうまちがいだといいな。(権利もいろいろね)