<教える>と<育てる>についていろいろなことがいわれ、かつ考えられています。ぼくもあれこれと思案投げ首でした。簡単にいうと、学校というところは「教える」(生徒にとっては「教えられる」ですが)一方の場所ですね。だれが教えて、だれが教えられるかは自明、だと信じられている。その教える一方の場所(教室)において、きわめて異様な事態が生じていることに気づいているひとは大変少ないようです。教える、教えられるという関係だけ(ではないけど)でなりたつ教育という機能が一人ひとりの個人の成長の危機をもたらしているということ、そのことに気づかないことこそ、今日の「教育の危機」のポイントじゃないですか。
上のような危機感をぼくが感じたのはすでに二十年も前のことだったと思う。だから、今時の子どもたちの大半はその「危機こそが日常だ」という状況下で学校生活を送っていることになる。「戦時」こそが日々是好日なんて狂気の沙汰です。不思議を不思議と感じない。奇妙を奇妙と自覚できないままにです。その危機がいかなる姿や形をとって顕現するかは人それぞれであり、ケース・バイ・ケースで、じつに個性的です。今では懐かしくさえある「ニート」であったり、いまなお社会の問題となり続けている「引きこもり」であったり、あるいは心身状態の不全であったり。年齢もまちまちで、早い人は10歳未満で、遅い人は30歳を越えてから。この現実に今昔の感なし。

要するに、教えられつづける(受身)ということは、かぎりなく考えること(能動)をしなくなるという意味です。考えることができないということでもあります。人間からとても大事な機能を奪い去る愚行だとぼくは唱え続けてきました。これはホントににつらいことです。どうしていいのかわからないのですから。判断する力が育っていないからです。教えられたから「正しい」のであり、習ったから「常識」なのだという具合に、人生の大事のことごとくが学校でやり取りされる「情報」に依存してしまったのです。なぜ人のものを盗ってはいけないの(?)お母さんや先生にに教えられたから」というのは正解じゃろうか。
学校は教えるところだと、ほとんどの人は信じて疑いません。子どもはもちろん親だって。教師でもそう信じ込んでいるんじゃないですか。実際にそのとおりで、学校は教えられるために通う、教えるために通う場所になっている。なにごとかについて自分勝手に得心したり、疑ったりすることは禁物だというわけです。教えられるのだから、その心は素直がいちばん、それがとうぜんのこととして被教育者に要求されます。教師の授けるあれこれを疑うことは断じて許されない(ホントはそうじゃないのだが)。教師が教える内容は、だれが決めたんですか。せんせいですか(?)
でも教えられるばかりだと、いったいどんなことになってしまうか。あまり自覚しないことでしょうが、たいへんな弊害が生みだされるんですね。「教えてください先生」「これはなんというんですか(?」」こういう具合に質問されると、先生ならずとも、いい子だ、感心な子だとばかり、ていねいに教えてあげることになります。「優等生」の萌芽ですな。ぼくは学校や教師嫌いだったから、「教えてくれ」などといったことはまずない。みんな我流、自己流でした。今に至るまでそれは変わらない。その良し悪しは言いませんよ。「教えない」教師は非難されるし、山のように宿題を出す教師は(尊敬されるかどうかは疑問ですが)、親たちからは歓迎されるでしょう。まるで親たちの教師のようです。「教える」ことで、何が行われるのですか。何が行われないのかな。

教えるに対して「育てる」あるいは「育つ」というはたらき。学校という場所、あるいは教師にとって、この「育てる」「育つ」という側面はは苦手中の苦手、そもそも学校は「育てる」ために作られたのではないのですから。あまりにも時間がかかりすぎるし、個人差がありすぎるから。「誰もがわかる授業」の効率は能率の悪いこと、どなたのご存じでしょう。まるで速さを争う競技だね、教育は。早食いや大食いがどれだけ醜悪か、ぼくには見るに堪えない。教室は「早食い(早おぼえ)」競技の会場ですか。
キュウリやトマトの苗を植え、さてその苗に対して、ああしろこうしろと「教える」ことはまったく無意味、おのずから伸びるのを邪魔しないで「育てる」ことしか、人間にはできない。だって、子どもはキュウリやトマトじゃないんですよという声が聞こえてきますが、はたしてキュウリやトマト以下なんですか、以上なんですか。いいや、キュウリ、トマトなんだよと、口には出さないがそう思っている人はたくさんいる。野菜でも果物でも、形や大きさ、重量によって選別され等級をつけられるSとMとかのレッテルを張られます。1等級だの3等級だの。変なの、それって。
また、かなり前から促成栽培だの抑制栽培だのが行われてきました。学校も全く同じシステムを採用しているんじゃないですか。特進クラス、普通コース、あかんたれ組などというクラス分けは今も昔も変わらない。ぼくはつねに「あかんたれ組」でした。実に気楽でしたな。競争相手はいないし、宿題も出なかったように思う。もちろん、序列化もなければ、そのためのテストもなかった。だからいまなおぼくは「あかんたれ」から抜け出せていない。学校はあらゆる意味で怖い場所だ。行かなきゃよかったとつくづく思うけど、学校によってダメ人間されてたまるかという気持ちが育ったんだから、以ってよしとするのかな。
こんな埒のない問題をあれこれ考え続けて数十年。今だに答えなんて出ない。でもそれがぼくの哲学(というほどのもんじゃないが)です。求め続ける行為・意識・過程こそが哲学なんだな。自問自答を中断しない姿勢。多くの学校の価値観とは正反対だね。