「男(女)は黙って、…」か

「多数派と多様性」について

 普通(ordinary)・みんな誰でも(everyone)・平均点主義(average)という考え方。このような観念(ものの見方)を主張することはまちがいじゃないけれど、それを強制するのは一種の全体主義(totalitarianism)だと思う。きゅうくつな感じがしますね。
 「普通」というのはどこにもないのに、一種のかたまりとして想定されています。「お前、普通じゃないよ」「わたしは普通の日本人です」とか。

 そのかたまりの一部になることが「徳」(よいこと)とみなされてきたし、また、そうするように期待されたのが学校教育の仕事だったと思う。いわば、かたまりのなかにみんなを閉じこめること。逆に言えば、「普通」という架空の土俵からはみ出ることを恐れるように訓練するっていうこと、ね。

  「みんないっしょ」とか「人はだれでも」というように、みんな(だれでも)のなかに自分を入れることに対して、わたしたちはあまり疑問をもたないんじゃないかな。むしろ反対に、自分がみんなから孤立するのを恐れる場合が多いでしょ、たぶん。どうしてでしょうか?「わたし」と「みんな」の見分けがつかなくなるのは、多数派をつくるという点ではいいことかも知れないけど、「わたし」が「わたし」である理由が消えちゃう。

 「人並み(十人並み)」ということをいいます。いいかえれば「普通」ということか。「人並みの生活」「十人並みの器量」「普通のおばさん」なんてね。でも、よく考えれば、「人並みの生活」や「普通のおばさん」はありそうでどこにもないし、いそうでどこにもいない。きっと、それぞれはどこかちがう。だけれどもそのちがい(交替不能で、かけがえのないこと)を認めることは意外にむずかしい。ちがいを突き出したいんだけど、それをかくさなければ仲間になれない。そのような二律背反を小さい段階から学ばされるのでしょうに。「ちがうけど、いっしょ」なんだというのなら大したものですが。  

 ここで、十人十色という言葉を使いたい。他国では So many men(women), so many minds. 三人三色でもかまわない。違いは違いとして残さない、つまりは自分を消さなければ、「だれでも」にならない。かなりまえにテレビを通して「日本人なら味噌汁だ」とブラジル出身のスポーツマン(蹴球派)が言っていた(言わされていた)のを思い出します。「日本人は」「男なんて」「女というものは」と何でもひとくくりにして観念でものをいう。「みなさまの×××」といわれると、ぼくはその「みなさま」に入りたくない。入れられたくない。

  「育てる」を支えにして「教える」が

 「教育」という言葉をみてください。そこには、「教える」と「育てる」という、二つのはたらきが含まれており、それぞれに異なるねらいがありますね。教と育と。「上から」と「下から」と。「多数派」をつくるのはどちらのはたらきですか。「多様性」を生みだすのは「教」ですか「育」ですか?(「教育」と「学習」とでは受ける印象がことなりますね)言葉の詮索はしばらくわきに置きます。なにごとにつけ、ぼくは詮索はあまり好みじゃないんです。

 さらに質問(自問)します。学校は「教える」ところか「育てる」ところか。

 たとえば「一致団結」とか「一糸乱れず」「全員一丸となって」などと、いかにもおそろしい掛け声がかけられたりします。また、島国の近い過去には「億兆、心を一にして」「挙国一致」などと、ありえないことを叫んでいた時代もありました。そうすることで、個人というか、「わたし」を消してしまおうとしていたのでしょう。自分のなかに世間(みんなの考えや態度)を受け入れるということです。これを徹底するのが学校教育の役割でした。今はどうなんですかね。

 集団にあっては、ただでさえ「自分」と「他人」がくっつきがちなうえに、それをさらに強めるような風潮が学校や社会(ホントは国家といいたい。「社会」と「国家」はなりたちがまったくちがいます)にあったし、今でもあるでしょう。「右へならえ」という雰囲気です。そして、たいていの場合は「右にならう」ことがいいことか、正しいことかと考える(判断する)手間がぬけているんです。「男は黙って、×××ビール!」(いかにも臭いし、なんで「男」かよ)


 こんな言葉がいまでも使われています。「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」「和をもって尊しとなす」「親方、日の丸」などなど。しかし、どこまでも「自分」と「他人」はちがうのだという自覚から、すべての物事をはじめたい、というのがぼくの生き方だし、デモクラシーの原理にかなっているのではないかと思う。100対0は救い難し。99対1の「1」はきっとぼくだ、という心持で生きてきたように思うね。(もちろん、非難 go go、いや、ごうごう だったが)これからもそうありたい。「1」がなければ、どうなるんでしょうか。「1」は全体をまちがいから救うかもしれない。「1」が「2」になり「3」になりというぐあいに…」「0」じゃ何も始まらない。

 かんたんに「多数派」に身をまかせないことが大事じゃないですか。あることがらについて、こんな見方がある、あんなとらえ方もできるという経験を重ねることによって、自分のものの見方に広がりや幅が生まれる。自分と他人はちがうのだというところから、新しい自分の成長(発見)が期待される。それが可能になるのは(自分とは異なる主体である)他人がいてこそ、です。多様性というのは、たんに「バラバラ」ということではないのですね。

 少数派の存在をを認めること。そこにデモクラシーのむずかしさがあるのかも知れませんね。今日、「多様性」という用語はあちこちで使われていますが。その傾向が強まると、きっと反動が来ますね。「男は黙って、…」と。「女なら、…」とか。ぼくが小学生のころ、教室の正面の壁面に「らしく」と墨書した額が飾られていた。男性の担任教師が書いたものでした。「日露戦争」の話ばかりしていた教師だった。卒業後、何年たっても「らしく」の意味がぼくにはわからなかった。つまり「女らしく」「男らしく」「日本人らしく」という道徳教育の狙いだったんだろうね。その内容はすっかり忘れてしまっていたが、「らしく」は覚えていました。なんだか音階みたい。(「ラシド」なら知っている派)