心根が不誠実である

 ほとんどテレビを観ない。理由は明白です。ぼくは影響されやすい人間だから、画面に映し出される政治家・公務員や企業家、さらには有識者やテレビ常連の芸人さんの「不徳のいたす悪行」や「慇懃無礼な独善者の背徳」「内容空虚な言動の連鎖」にほとほと嫌気がさし、脳梗塞あるいは狭心症寸前にいたっているからです。つまるところ、「悪徳」「下品」「軽薄」に汚染されるのが嫌だからです。さらに言えば、テレビに関しては観ようという気力がない。垂れ流されるコマーシャルが品性下劣の見本(他人のことはいえないが)、制作者の意図が不快かつ不純であり、頭脳や身体に危害を及ぼすほどの醜悪なるものが大半だということ。売れればいい、収入があがればいいという極悪徳商法にうつつをぬかす当事者たちの脂下がった顔貌が見えるよう。それを操り人形師のごとく支配する広告媒介業者がまたとんでもない辣腕をふるって、マスコミ界を腑抜けにしている。番組の質に問題があるというのは論じるまでもない。今頃の若い人はテレビや新聞にアポローチするのかどうか。紳士淑女の皆さん、危うき(醜悪・背徳)に近寄らず、です。マッチ一本火事のもと、テレビ一台不義のもと。近藤マッチはドライバー。(なにこれ(?))

 若いころはテレビの前に座るときもあった。近年のぼくのテレビ嫌いはぼく自身に問題があるというよりは作る(流す)側にはっきりとした問題点があると断じたいね。公(国)営放送については話すのも無駄だが、あえて一言、組織の内部に大きな病巣があるんじゃないですか。人でも家でも企業でも国家でも長く続いたり、競争相手がいなければきっと腐る。かならず堕落・頽廃する。その中にいるものが腐敗・堕落に気づかないからだ。この腐敗や腐臭は消臭剤や防腐剤では防げない。

 テレビ界とそっくりなのが新聞界。宅配の新聞を購読しなくなって何年になりますか。いまはネットで世の中の「動静」(じゃなくて「動動」)をなぞることができるので、新聞もテレビもぼくには無用。現今の「新聞」はどこかの組織・組の「機関誌」「広告塔」のごとくです。雇用主と同様の嘘や偽りを無反省に書き写すだけ。ここで、胸糞が悪くなるような話題に触れようとしたのは、たまたま国会中継なるものを観てしまい(魔が差したんだ)、陳腐さ加減の衝撃を喰らい、まるで白昼に悪夢を見るような不快千万の気分に襲われたからです。愚かしい「大将」が嘘を吐けば、もろもろ(下々)は右にならい、上にならう。矜持というものが捨て去られてしまった無法状態。様々な場面で想像のつかない悪影響を及ぼしていると思う。愚の感染力は凄いんだ。

 ぼくが驚いたのは、とっくに「代替わり」しているにちがいないと早とちりした「某君」が同じ顔をし、同じ口から自己保身だけの御託を並べ立てていたことでした。恥も外聞もないとはこのざまを言う。いまから七年前でしたか、ぼくは頼まれて小さな雑文をどこかに書いた記憶があります。前回は不本意な「疾病」のために辞めたけど、今度は満を持し、あるいは捲土重来を期しての登壇だから侮れない、と。相当に作戦を練ってきたはずだから、「おのおの方十分に気をつけよ」という意味のことを書いた。もちろん、ご本人は小心で無能、だからか、自己肥大の宣伝ばかりにはたけている。その上「不誠実」のレヴェルは抜群だとぼくは感じていました。実がないというか、心がこもらないことおびただしいという謂です。これに有象無象が取り憑いたというのがこの劣等の政治状況でした。時を得たな。

 虚言癖(すでに性情ですな)がいまなお継続していたのを目の当たりにして驚愕した。嘘八百の言辞を並べるその神経たるや勲章(大勲位か)ものです。ぼくはうかつにも「そっくりさん」かと錯覚したほどです。この島でこんなことが延々とつづいていたというだけで、ぼくはすっかり悄気た。たまにはテレビの電源をいれるものだとも思った。こんな手合いが年間100兆からの予算を勝手放題にドブに捨てるようにして無駄遣いしていたのか(彼は傀儡だが)と考えると、悄気てもいられず、テレビを消しても存在は消えないという理不尽さに途方にくれかかっていた。糠に釘、暖簾に手押しというが、「そんなことは無駄だからよしな」という戒めではない、無駄かもしれないが、釘は打ち続け、手押しは続けなければならないといいたいのです。眉間に五寸釘ではありません。糠です、糠に釘。まるで糠じゃありませんか。「糠喜び」とはなんだか。この劣等の「大将」は糠であり、「暖簾」なんだというだけでは足りない。即刻お払い箱に、暖簾を下ろす時期が来た、今こそです。それを念じてやまない。

 この駄文の主題は「不誠実」とは、です。以下の引用には解説も解釈も不要でしょう。

 「…はっきりした言葉の敵は不誠実である。人が不誠実であって、自分の実際の目標を隠そうとする時、その人は本能的に長い言葉や決まり文句を次から次へと繰り出すのだ。普通の人間が自分たちの使っている普通の言葉ではっきりものをいう習慣を保とうと努力する時、その社会の政治の水準は、ある程度に保たれる。ここには、だれでもできる重大な政治的行動があり、…」(鶴見俊輔「オーウェルの政治思想」)

Billy Mayhew 詞・曲 1936年ーPatti Page,Billy holiday, Tony Bennetなどの歌声が今も耳に聞こえてきます。「嘘は罪」

 「バカも休み休み言え」と諫言する同士や手下がいないのはわかります。それは「天に唾」の所業だからです。俗耳にもよく入ってきた「嘘も方便」とは「嘘は罪悪ではあるが、よい結果を得る手段として時には必要であるということ」(デジタル大辞泉)とありますが、おのれだけにとって「よい結果」を得るためのウソであり、民衆には最悪の愚行でしかない。「不誠実」を感受(自覚)できないのが「小山の大将」です。自分を大きく、でっかく見せようとする算段が講じるとこういうバカみたいなおっさん(俗物)になるという見本・手本です。「一蓮托生」とはもと仏説の言。「よい行いをした者は極楽浄土に往生して、同じ蓮の花の上に身を託し生まれ変わること。転じて、事の善悪にかかわらず仲間として行動や運命をともにすること。▽もと仏教語」(デジタル大辞泉)この国の「中央議会」の先生たちはまさしく「一蓮托生」の愚連隊か、「与」も「野」も同じ空気をつねに吸っているのだから、仲間互助の意識が生まれないはずがない。そうでないなら、この「嘘」に凝り固まった御仁(痴れ者)がここまでナントカの椅子にしがみ続けるわけにはいかなかったから。おそらくは美しい「惻隠の情」がはたらいたにちがいない。アナ恐ロシア。

 「私は、このようにおもう。たとえまちがったことをしても、私には彼ら国家指導者ほどの悪をなしえない、ということです。繰り返しますが、どんなに私が悪いことをしても、かれらほど悪いことはなしえない。それを私は自信をもって言いきることができる。ここに、私と国家指導者との重大は違いがひそんでいるようにおもう。(略)」(以下の引用はいずれも鶴見俊輔「国家と私」より) 

 おそらく鶴見さんは「戦争」を起こし、戦時を指導した軍人・政治家を第一義(念頭)にこの文章を書かれたにちがいない。「戦時」であれ、「平時」であれ、国家指導者はぼくらとはけた違いの「悪」をはたらくとぼくはいいたい。同じ犯罪であっても、彼らははるかに罪が重いのは当然じゃないですか。刑法では量刑は同等でも、やはり罪の軽重は疑えないとぼくには思われるのです。その理由は(?)鼻たれ小僧(今は絶滅種か)が嘘をつくのと「大将が」嘘を吐くのは同罪ですか。嘘に変わりはないけれど、ね。

 「私たちは国家指導者ほどの悪をなしえないということの故に、私たちのほうが倫理的に優位に立っている。そのことによって私たちは、自由に国家指導者を批判できる立場にいる。ところが、やはり心の底のほうにあるわだかまりによるものか、その信念があとで簡単にひっくり返ってしまうことがある。結局、国家指導者の方が偉いのではないかといった漠然たるものが私のこころのそこにあると、危ない。」(同上)

 鶴見さんの文章がいつ書かれたか。時代の状況や背景は今日とはことなるのは言うまでもないが、人情は「紙風船」であることに変わりがないようにも思われます。損得が判断の基準になって何が悪いという、その心根が救い難いんだ。「義理が廃れば、この世は病み(闇)だ」(「人生劇場」令和版)

 「私は国家指導者ほどの悪をなしえない。したがって、その点において私のほうが国家の指導者よりも優位にあるという自信ーそれを忘れないでいたいと、私は考えます。」(同上)

 目が覚めたら、「大将」が変わっていたという発見(正夢)を夢想する。このままでは百害あって一利なしです。かような事態が永続するのは、愚弄しながらでも「大将」を弄ぶほうが、おのれの身になるとほくそ笑む輩(一連)(取り巻き)(サクラ・サクラ)が五万といるからだ。後は誰でもいいとはいわないし、いくらなんでも現「大将」よりはマシだろうという甘い考えは止した方がいい。「同じ穴の狢」ばかりだから。(むじなさんごめんなさい。「わたしは人間ほど質は悪くない」といわれるのはごもっとも)現状は「政治不信」などと洒落たことをぬかす水準に達していないのだから、「有象無象」に身を任せるな、自分の足で立て、ふりかかる火の粉はたたき潰せというだけです。この方面のウイルスの方が質が悪い、悪すぎるし、感染力もやわじゃなさそうです。ワクチンはない。歴史に学ぶだけです。その上で、「個人的自衛権」の着実な行使を心掛けるべし。「帝力何有於我哉」(なにが政治家だよ、服は着てから歩け、寝言は寝てから言え)

 言葉を弄するものは、おのれをも弄するにちがいない。(ぼくは厳に戒めている。たとえ雑文・駄文といえども言葉だから)嘘は嘘でしか向き合えない。嘘で塗り固める防御癖化した「御大将」。ここまで来てしまって、少しは困っているのだろうか。ナントカの面にナントカ、かもしれません。「嘘つきは泥棒の始まり」ならば、島国では「泥棒が大将」なんだね。世界に冠たる虚言王かな。こんな言葉が出てきました。「冠履倒易」その意味はいかが(?)上下が逆、ということか。一日も早く辞めてくれといいたい。それこそがなしうる最大の「社会貢献」ですから。(いっても詮ない千鳥かあ)(雑文にもならぬ)もうこんな手合いに関する駄文は書きたくないね。(「春よ来い来い。ウグイスよ啼け、啼いてくれ」)

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。