
念仏して、地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからずさふらふ
―親鸞
親鸞晩年、京にいるころ、かつて教化した関東の門人たちが念仏してはたして往生できるかと、根本義に疑念を感じてはるばるたずねてきた。その様子が〝歎異抄〟冒頭のうしおの鳴りうねるような名文のなかに出ている。
「おのおの、十余カ国の境をこゑて、身命をかへりみずして、訪ね来たらしめ給ふ御こころざし、ひとへに、往生極楽のみちを、問ひ聞かんがためなり」
と親鸞は、まずその労をねぎらい、しかしながら、という。おそらく念仏の奥義秘伝などを親鸞は知っていると期待されてのことであろう。それならば大いにまちがいである。親鸞はなにも知らぬ。ただ一つのことを知っている。
親鸞はいう。親鸞においてはただ念仏して弥陀にたすけられ参らすべし、という一事をよきひと(崇敬する師匠・法然)のおことばどおりに信じているだけである。そのほか、なんのしさいも別儀もない。
さらにいう。念仏すれば本当に浄土にうまれるのか、それとも逆に地獄におちてしまうのか、総じて親鸞は存ぜぬ。しかしながらたとえ先師法然上人にすかされ(だまされ)、そのため「念仏して、地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」。
考えてもみよ、と親鸞はいう。弥陀の本願が真理であれば釈尊のご教説はうそではないであろう。釈尊のご教説がまことならば善導(中国における浄土教の祖)の御解釈は虚言ではあるまい。善導が虚言でなければ法然のおおせ、そらごとではあるまい。法然のおおせまことならば、親鸞が申すことまた空しかるべからず。
宗教は理解ではない。信ずるという手きびしい傾斜からはじまらねばならない。その信ずるという人間の作用についてこれほど剛胆な態度と明解なことばを吐いた人間は、類がないであろう。
しかも親鸞はいう。この上はおのおのの、念仏を信じようとも捨てようとも、おのおのの一存にされよー信とはそういうものであろう。
さらに親鸞はいう。
「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」
信仰はおのれ一念の問題であり、弟子など持てようはずがない。教団も興さず、寺ももたぬ。なぜならば弥陀の本願にすがり奉って念仏申すこと、ひとえに親鸞ひとりが救われたいがためである。
右のようなことばの根源である親鸞の勇気は、かれがかれ自身を「しょせんは地獄必定の極悪人」と見、自分を否定し、否定に否定をかさねてついに否定の底にへたりこんだ不動心のなかから噴き出てきたものであろう。(昭和42年5月)『司馬遼太郎が考えたこと 3」、新潮文庫。2005年)

いきなり結論が出てしまったような成り行きです。ぼくは若いころから司馬さん(1923-1996)を読み続けてきました。とにかく面白いからです。ぼくのいう「雑談(ぞうだん)」そのものが活字になっているという驚きと感心の両方がぼくの中に生まれていました。それと彼が関西(兵庫)出身だったことが、彼の文学や随筆にも、ぼくの司馬好みにもおおきな役割を果たしたと思う。
たった一度だけ、司馬さんに会った、というより、一瞬のうちにすれちがったことがありました。たぶんぼくの25歳前後の頃でした。用事があって西武線の大泉学園に行った際、訪問先に着く直前に、狭い道路で司馬さん一行(おそらく編集関係者が2、3人いたと思う)と鉢合わせしたのです。まさにencounterです。どちらかが譲らなければ先に進めないような状況でした。すぐに司馬さんだとぼくはわかりました。(白毛でしたから)ここで声をかけるわけにもいかず、数秒間顔を見合わせて、やおら行き過ぎたのでした。たったそれだけ。後から思い合せて、司馬さんは当時大泉に住んでおられた五味康祐氏(1921-1980)のところに行かれた帰りだったのか、と気づきました。五味さんは『柳生武芸帳』で知られた剣豪小説の大家。私生活の部分でも世間を賑わせた方でした。また異常なほどの音響機器マニアで、大きなスピーカーの前にバスタオルをつるし、レコードの低音部を最大にしては「どうだ、震えただろ」などというバカげた逸話が残されています。小説よりもこの方面の五味さんに興味を持ったことがありました。音楽ではなく音響(機械)に、です。
後年になりますか、この近所に藤澤周平氏((1927-1997)も居住され、数えきれないほどの作品を残されました。彼をもまたぼくは最後まで追っかけた作家で、全集はいうまでもなく、ほとんどすべての単行本や文庫本を今でも所持しているほどです。(バカみたい)藤澤さんは山形師範学校を出て、小学校の教師をされますが、胸(肺結核)を病み、療養のために上京。清瀬の結核療養所に長期だったか入院されました。この間の、言いようのない苦悩や葛藤が後の藤澤文学の骨格になったのではなかったか。教師時代の彼にぼくは興味を持ち、少しばかり調べたことがありました。今は遠い昔の物語となりましたが。『やまびこ学校』の無著成恭さんと同窓(数年先輩格)だったと思います。
親鸞に戻ります。
「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おはせさふらひき」

いわゆる「悪人正機」説とされる、もっとも多くの人士の関心を引いた箇所であり、同時につまずきの石になったところであります。「善人だって極楽に行けるのだから、悪人が往生極楽するのは当たり前ではないか」と親鸞はいうのです。その悪人こそ、だれあろうこの親鸞であって、ひたすら念仏を唱えるのも、わが身が救われたいがためだとにべ(鰾膠)もないことをいうのです。誰かのためになる、誰かを救うためなどという嘘偽りを彼は断じて否定したのです。自分を棚に上げて、悪人諸君、民衆よなどと人民を睥睨する(見下す)俗にまみれて俗を軽侮したつもりでいる悪人坊主(「悪人」という自覚はまったくなかったでしょう)の臭気は親鸞にはみじんもなかったとぼくには思われます。宗教宗派の破壊者・親鸞の真骨頂だったとぼくは一人でうなずくのだ。
明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは(宗教破壊者の「宗教」?)