
早春賦 (吉丸一昌詞 中田章曲)(1913年 発表)
春は名のみの 風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど
時にあらずと 声もたてず
時にあらずと 声もたてず
氷融け去り 葦(あし)はつのぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けばせかるる 胸の思いを
いかにせよと この頃か
いかにせよと この頃か
すでに立春は過ぎました。(2月4日)毎年、この時期には隣の竹藪からウグイスの笹啼きがさかんに聞こえてくるのですが、この春はいまになっても、その気配がありません。人界のウィルス騒動に危機感を感じたのか、それとも殺伐とした俗世に嫌気がさしたのでしょうか。「早春賦」はぼくの愛唱歌です。「好きになった人」やちあきなおみさんの「矢切の渡し」と同等かそれ以上に好んでいます。当地は「谷」ではありません。標高はたかだか(ひくひく)百メートル程度。それでも春の知らせが時節をたがわずに届くのですから、なにもない寒村であっても(ふざけたことを言うなと近所から怒られそうです)、新参者のぼくにも少しは愛着が湧こうというものです。
歌詞に「つのぐむ」や「あやにく」などといまでは耳にしないことばが出てきます。どんな意味なのか。ぼくもよくわかりません。わからないけど、歌の調子はいいですよ。このメロディでは「歌が旗になる」という気がしませんでしょう。「千代に八千代に」「勝ってくるぞと勇ましく」というのと根っこからちがうでしょう。「春は名のみ」がいいといったのは、だれですか。清少納言(?)まさか。
ぼくの家の周囲はもともとは檜と杉の植林地だったが、そこに孟宗竹が invade してきた。その勢いたるや驚異的です。その竹林をねぐらにウグイスたちは家庭(home)を築いていたのです。のどかな風景の中、毎年かならず立春を過ぎると「初鳴き」を耳にすることができたというわけ。ところが今年はまだ「啼く」気配がまったくない(2月22日記・本日は「ニャンニャンニャン」で「猫の日」だとよ。ニャンデヤ)。(カーソンの『沈黙の春』を想起し、身震いしています。寒さや新型肺炎のせいばかりではありません)そこでハタと気がついた。広島の「ウグイス」たちはえらいご馳走をもらっていたというニュースが流れた。ホントかウソか、相場の二倍とかの馳走にあずかったそうな。それを近所のウグイスさんらが聞き知るところとなり、ハンストを実行しているか、あるいはひょっとして広島へ赴いたか。一億五千万とはたまげた話だね。げに「地獄の沙汰も金次第」とは親鸞でさえ言わないよ。夫婦でクズ。夫は「法務大臣」だったそうな。もう手の施しようがない。「薬石効なく」で、ヤブといえどももさじを投げるね。こんな連中が「セージ」をつかさどるという島国はほかにあるか。山口だの広島だの、維新時を一歩も出てないね。「お医者の頭に雀が留まる 留まるはずだよ藪だもの」ウグイスはいないのか。いなくても、啼けるだろ。