心が歩いて行く

    歩く                                      幸田文

 手足を動かしてするといふことと、頭でじつと考へるといふことは、二ツの違つたことに思ひがちな習慣がある。けれどもこれは結局するといふ一ツのことになる。考へるというふことをしてゐるのであつて、するといふことを手足を動かしてすることにきめるから、じつと考へることがすることと別物に思へるだけの話である。だからすることは頭の部分と手足の部分と二ツあるのだ。目に見えるのと見えないのとの相違だけである。考へるとか思ふとかは、現在の一点から動いて、高い丘へ広い野へ低い谷へと一歩一歩歩きだして行く心なのだ。心が歩いて行くことが、考へる、思ふなのだ。(中略)

 「歩く」とはいつたい何だろう。左右の足を代りがわりに動かして前へ進むことで、なんでもなく始終やつてゐることだ。でも、歩いたかと云はれると、五十年をふりかえつて見て、「歩いた」と返辞のできるのは二度しかないやうである。あとは、「やうな気」がばかりする空しさである。一度は女学校の通学、これは、十八町の堤(どて)をどうしても是非歩かなくてはならなかつた。足のほかに頼るものがなく、電車もバスもない時代だつたし、渡し船さへも早朝の通学時間には間に合はないことが度々だつたからであり、五年間に歩いたこの堤は、たしかにひたむきに歩いた手応へがある。それからもう一度、終戦のあと食糧事情がひどく偏(かたよ)つてゐたとき、病父にたべさせたいいつぱいで、毎日歩きに歩いてさかなを追つかけ、菜つぱを捜しまわつたが、それもたしかに歩いたといふ確信がある。通学は疲れたなどと感じたことはなく、充実して歩いたし、食糧さがしは疲れを堪へつゝ、たしかに歩いて歩き通したといふ感じである。(「歩く」1956年1月)

●幸田文(1904-1990) (東京生れ。幸田露伴次女。1928(昭和3)年、清酒問屋に嫁ぐも、十年後に離婚、娘を連れて晩年の父のもとに帰る。露伴の没後、父を追憶する文章を続けて発表、たちまち注目されるところとなり、1954年の『黒い裾』により読売文学賞を受賞。1956年の『流れる』は新潮社文学賞、日本芸術院賞の両賞を得た。他の作品に『闘』(女流文学賞)、『崩れ』『包む』など。) 

 『幸田文全集 全23巻』(岩波書店刊、94年~97年)を購入したのはいいのですが、それをすべて読了していないのはどうしてか。面白くないからではなく、ぼくの根気が足りないからだというのが事実だ。「文」全集にとりかかる前に、もろもろの材料がぼくの前に行列していて、それを始末しようとしている間に、「幸田文」がお留守になったというのが実際です。そろそろ、ゆっくりと読みたいところですが、残りの持ち時間が僅少・些少になってきました。昨日亡くなられた野村克也さんは84歳でした。彼が南海に入団したころ、(昭和31、2年)当時のことをぼくはよく記憶しています。どうしてなのか。理由は簡単ですが、ここでは話さない。ノムさんにはゆっくりと休んでもらうことにして、文さんです。

 ふっと思いました。文さんがこの文章を雑誌に書かれたとき、ノムさんは南海キャンディーズじゃない、ホークスに二軍選手(給料7000円)として入団したんじゃなかったか。彼はいわゆるブルペンキャッチャーであって、けっして一軍に上がることがない、投手の練習時の「壁」としての入団だった。契約期間は一年だったか。その年の終わりころに「来年は契約しない」と球団から宣告された。京都の網野町(郷土)の期待と希望を一身に背負っての南海入りだっただけにノムさんは納得できなかった。どうして駄目なのかと食い下がったが、約束(契約)だからと球団側がとりあわなかった。そこで彼は「わかった。俺は帰りの電車で飛び込みする」と幹部に告げた。「南海二軍選手、首になり南海電車に飛び込む」と翌日の新聞にでかでかと出ても構わないか、と幹部を脅迫したんだね、脅迫したおかげで首がつながった。(ノムさんについては、後日?)

 たしかに文さんの書いたものをまじめに読まなかったが、少ないけれど何度も読んだものはあります。この「歩く」は短編ですからなおのこと、ぼくはくりかえし読んできました。じつを言えば、露伴に夢中で過ごしましたから、その娘さんに気づくのが遅かった。たいていは親父ではなく娘に気を引かれるのでしょうが、ぼくは違いました。ぼくが気づいたときには文さんは「後期高齢者」だったというのは失礼な。年齢に関係なく、もっと丁寧に読んでおくべきでした。

 それはともかく「歩く」です。ぼくは山中に住んでいますので、歩く道や獣道には不自由しません。それ以前は街中にいましたので、「飲み屋」も目立ち、自動車も多く、さらに運転が乱暴なやからもいましたので命がけで「歩く」覚悟を必要としました。いまも命がけですが、敵は車じゃなくて「イノシシ」です。アクセルだけのブレーキなし。くわえてハンドルという肝心な機能がない相手ですから(ぼくの感覚からすれば、ですが)、出会わないことを念じながらの散歩です。どうかすると、町内には猟友会などという恐ろし気な団体もあって気が抜けません。年に何度か「駆除日」があるようです。人間の敵と名指したものを「駆除する」という発想というか、姿勢には怖気づきますね。「「発砲注意!近所に人家あり」という看板が山の中に立てられています。(先日、やまのかみと車で下の街まで買い物に出かけた際、大通り(国道××号)に出る手前で、いきなり大きなイノシシ(🐗)が車の前に飛び出してきました。危うく直撃を食らうところでした。近くの有料道路でも「イノシシの飛び出し注意」という看板が出ています)ジビエだかジバエだかわかりませんが、異性と仲良くとはいかないものか。

 文さんは女学校時代に十八町の堤(土手)を通学したといいます。(曖昧な記憶ですが、彼女は当時千葉県の市川に住んでいて、そこからどこだったか、学校まで歩いたというのです。「町」(「丁」)は360尺(60間)で約110メートル。だから十八町は2キロ弱です。大した距離じゃありませんね。その昔、多くは江戸から京大坂まで歩きました。それも驚くほどの短時日で、その距離はおよそ500~600キロです。新幹線なら2時間余。時間や速さがどれほど人間のもろもろの能力を損ねているかという話です。「速さ」を競う時代は、一面においては「人間の退歩・堕落」をあえて獲得するという錯覚しきった状況を生みだしました。「歩行」の習慣が多くの人から奪われた結果、衰えたのは「思考」の態度・心構え、つまりは意欲でしたね。他人がすべて「お膳立て」してくれる時代に突入したのです。

 「歩く」は「思う」と同じ働きの二面であるというのは正しい。ぼくは少し前(50歳くらいまで)には山登り(山歩き)が好きでした。登っているときの脳の働きがとてもさわやかだったのを時に想いだしたりします。「下界」の憂さはいっさい脳内に入ってこなかった。貴重な経験でした。一日の重労働から疲れきって帰宅し「虫唾」が走り続けている胃痛に苛まれながら、小さな庭の緑に触れた時に感じたのと同じ効果を脳や身にもたらしてくれました。山の空気や緑の木々はぼくの「胃薬」(キャベジンや太田胃散ではない)でした。やぶ医者いらずです。

 「心が歩いて行くことが、考へる、思ふなのだ」というのはその通りだと感じ入りました。現代人はほんとに歩かなくなったといわれます。そうですかね。現代とか前時代などに関係なく人間には「歩く人と歩かない人」の二種類があるということじゃないでしょうか。 歩行優先と歩行回避の2種。どちらがいい悪いじゃないわけで、要は歩くか歩かないか。猪も猿も狐も狸もみんな「歩行第一主義」者です。自転車に乗る猿や猫などはたまに散見しますが、あれはやるのではなくやらされているんでしょ。だから彼や彼女は「よく考える、思う」派かと思いきや。直情径行だから、まるである種の人間並みですね。「動物の人間化」に対応して(ある人達が責任を感じてか、すすんでか(?))「人間の動物化」が超高速で進んでいるのが今日ただいまです。「気をつけよう、人は急に止まら(れ)ない」だってさ。まさしく、命がけです。「人の女房と枯れ木の枝は 登りつめたら命がけ」(どどいつ・都々逸)という学校で扱う知識ではないがちょっと大事な哲学がここにある。ぼくはこれも志ん生から伺いました。彼は度重なる「命がけ」の経験者でしたから、真に迫っていましたね。ちょっと意味は違うか、いや同じか。どうせなら別のものに命をかけたい。

 「歩くことが考えることだというのか」と口をとがらして車や電車に乗りながら文句を垂れている人の顔が見えるようだ。どうぞ、ご随意に。さらには、安くないお金を払って「室内歩行」に心がけている方もおられるようです。どうか、ご勝手に。ぼくは天気に恵まれればほぼ10キロほど歩きます。じつにさわやかですね。でも上には上がいます。隣、と言っても500メートル離れていますが、その親父さん(ぼくと同年)はなんと一日八時間歩くそうです。近所の評判では「あれは徘徊病さ」です。彼は週に三回、通院しながら「人工透析」をされています。一回あて四時間だか。これは医源病だといわれていました。(医者の見立てまちがいで生じた疾患)さて、歩こう、前を見て。(イノシシは「人間を人間と思ってないね」じつに傍若無人です)(時間切れ。時刻は午前11時)(今戻ってきて、追加分を書こうとして思考がはたらかない。きっと歩行しないで、車行だったからだと、思い当たりました。時刻は午後3時過ぎ)

 その昔、もう亡くなられた随筆家の岡部伊都子(オカベイツコ)さんと電話で話していた折、彼女はぼくにいいました。「Rさん。私は学校に行かへんかったから、ぎょうさん考えられるようになりました」まあ、ぼくにあてつけたように言われたとぼくは受け取った。それでよく考え(歩行)もしないで、「ぼくは学校(大学)へ行ったけど、それにもかかわらず、考えられるようになったし」と減らず口をたたいたことを今思い出しました。少し歩いてこよう。歩行は思考だ。

(いったん中止です。時刻は午後4時半です) 

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。

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