柄にもなく、良寛さんの漢詩を

 よくわかりもしないでいろいろなものに手を出してきました。なにか身についたかと問われれば、無残も無残、文字通りに何も残っていません。これまでに人並みに本を読んできたといいたいところですが、その数少ない読書から得たものはほとんどなさそうです。いったい「読んだ本」はどこに行ってしまったのか。(古本屋じゃなさそうです)「読んだ本」とは「読んだ本の記憶」の意味。そら恐ろしくなるほどに何も記憶に残っていないという恐怖。それならば、残る残らないに構わずに読みつづけるほかないと、半分はあきらめ半分は意欲十分、いかにも不届きな心持でいまも時間をつぶしているのです。金も残らなかったし、読んだ書物の記憶も消えてしまった。きれいさっぱり浮世の痕跡は消え、残るものといえばわが貧相な骨柄のみという惨。人間元来無一物だそうですね。だから良寛さん。

子どもに頼まれて凧に描いたもの

 さて良寛(1758-1831)さんです。宝暦八年に越後出雲崎に生まれ、天保二年、(現在の長岡市で)没しました。本名は山本栄蔵。(さしずめ、映画俳優のようなお名前)74歳でした。なんと昔の人かと思われますが、明治維新を導いた多くのヤングたちは天保生まれでしたから、彼の没年はごく近年なんですね。ぼくの伸ばした手には届かないにしても、世代でいえばたかだか三代か四代前の話。ぼくの親父の親父、つまり祖父は1880年だったかの生まれ。だからその前代です、天保は。(過去帳を見れば、さらに何代か前までわかります。偽作じゃなければ)(「天保生まれの青年たち」についてはいずれ。参考までに。天保年間は元年から十四年まで。西暦では1831-1845。主な人物を順不同、敵味方入り乱れて。吉田松陰、大久保利通、木戸孝允、江藤新平、坂本龍馬、高杉晋作、近藤勇、土方歳三、中岡慎太郎、福沢諭吉、板垣退助、大隈重信、山形有朋、井上毅などなどなど。長い歴史のうちには、こんな時代がきっとあるのでしょうね)

 良寛さんは号をいくつか持っておられました。ぼくがもっとも好きなものは「大愚(たいぐ)」です。およそぼくにはかりしれない深度や高度さらには奥行きを有する宇宙をあらわすようなペンネーム(まるで号外だ)です。彼は曹洞宗ですから道元禅師の弟子筋に当たります。今でいえば、住所不定の輩で、諸国を歩き、やがて越後に戻り、いろいろな方面で活動したといわれますが、履歴は明らかではなく、存命中から謎に満ちた人でした。ぼくも生意気にも道元師を齧ってきました。それがために歯が欠けてしまったほどに、ぼくには歯が立たなかった。その顛末もまたどこかで触れたいと思いますが、はて寿命がもつかどうか。『正法眼蔵』は数回最後まで読んだことがあります。ぼくの感想では、道元さんは50歳で亡くなりましたが、いうならば「学者」そのものだったと。学者のとらえ方によりますが、彼は宇宙や真理、仏教、悟達その他について、縦横無尽の知識を動員して哲学書を表したといえそうです。(「読んだ記憶」は無残)

 余談です。連れ合い(やまのかみ・「ういのおくやまけふこへて」と「は山の上」に鎮座しています)の母(義母)の実家が新潟の巻町越前浜でしたか。(ここで註です。越前浜ではなく「角田浜」でした。書いて何日経ちますか。記憶違いであることに気づきました。無残)だからよく柏崎や寺泊の近くで遊びましたし、その延長で出雲崎の「良寛記念館」にいったことがあります。それでどうした?(別にー、です)

 「良寛は僧ではあっても生涯寺をもたず無一物の托鉢(たくはつ)生活を営み位階はない。人に法を説くこともせず、多くの階層の人と親しく交わった。子供を好み、手毬(てまり)とおはじきをつねに持っていてともに遊んだ。正直で無邪気な人であって、人と自然を愛して自然のなかに没入していた。無一物でありながら、震えている乞食(こじき)に着物を脱いで与えたこともあるなど、自作の詩歌や『良寛禅師奇話』(解良栄重(けらよししげ)著)などに伝える」(大日本百科全書』

 まず一篇。

無欲一切 / 有求万事窮 / 淡菜可療飢 / 衲衣聯纏躬

独住伴糜鹿 / 高歌和村童 / 洗耳巌下水 / 可意嶺上松

 さらに一篇。

花無心招蝶 / 蝶無心尋花 / 花開時蝶来 / 蝶来時花開  

吾亦不知人 / 人亦不知吾 / 不知従帝則

 下手な、そして無謀な「解釈・解読」はしないし、できない。我流の鑑賞法(?)はわからないなりに、終日その詩(対象)を見続けます、翌日も。時間が許す限り、また…。あたかも海や山に出かけて、ひねもす坐って「遠くを見よ」う、です。やがておのずから判然として…きませんよ。また、初めてあった人がどんな人物なのわからないのが当たりまえ。わかろうとしてひたすらつきあう。その長いつきあいから、あの人は「こういう人なんだ」とわかることがあります。ぼくはこの長いつきあいが「教育」なんだと思ってきました。

 悪い例ですが、「やまのかみ」とほんとうに長くつきあってきました。そこから「ああ、この女性はこうなんだ、こんな性格だったのか」と納得することができましたが、さらに新たにわからないところが見つかります。「へえ、こんなやつだったの」と「わかった部分」と同量の「未知の部分」が生み出されるんです。あるいは「既知」の部分が増えるに応じて、「未知」の部分が減少するんではなく、かえって増大するのではないか。ぼくの経験ではそうです。つまりつきあうにつれ、この女性は「謎のかたまりじゃないか」と恐怖を感じるのも事実です。この増減現象は無限旋律なんですね。つきあい甲斐があるとはこのこと。それでいいのだと思いたくありませんが、まあ妥協です。そして失敗し、また挑戦する。そういう我流をさまざまな場面で通して今まで来ました。なにごとにおいてもぼくは我流・自己流でした。だめですね、我流は。もはや手なおしは手おくれです。したがって、ここでもその流儀です。あるいはしばらくして、ああこういうことか、さすがは良寛だ、となればしめたものですが。まずそれはありません。(そんな僥倖は金輪際、ありえない)(我流もまた楽し)

 

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。

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