ただ今、大変な事態にぼくらは遭遇しています。いうまでもなく、新型肺炎(または新型コロナウィルス)の「感染」流行問題です。「パンデミック(pandemic)」(感染爆発)じゃないと「識者A」は言い、インフルエンザ程度の感染性だからあまり心配するなとまで言う方(専門家B)もいます。ぼくが奇天烈だと思ったのは「正しく恐れよ」という迷惑語です。どういう意味じゃろか。専門家にさえその実態(性質)がわからない代物に、「正しく」もなにもあったものではないでしょうに。「正しく」なら、恐れるに足りないというべきです。「正しく」と「恐れる」は並ばないよ。まず「嘘や偽装ニュース」に感染しないこと。これにはマスクは効き目なしです。手洗いも無効でしょう。この期に乗じての火事場泥棒の蔓延こそ、退治すべきですね。マスクの爆買い・爆売りに殺到しているものをこそ、隔離してほしい。不十分な検査体制の問題にしている政府がやるべきは、検疫法などというものを盾にするんじゃなくて、万難を排して不安や心配に陥っている人たちを救済すべきであって、国籍だの渡航歴を超えて対処する必要があるでしょう。違法行為を平然となす人間たちが「法を盾にする」などという太陽が西から出るような驚天動地な破廉恥をしてもらいたくない。まだ隠していることが今回の事案でもたくさんありそうです。

「大衆は、目的のはっきりした主張の容赦ない力と押しの強さを目の前に見て、結局それに屈従するものなのだ」と図星をついたのはだれでしたか。どこかの小泉さんや安倍さんだというなら、当たるといえども近からず、だ。彼らが「大衆」を白眼視しているかもしれないが、こういう発言を残していない。こういったのは、なにを隠そう、かのヒトラーでした。ひそかに『我が闘争』を耽読している人は少なくなさそうです。ひょっとして「某総理」や「某大臣」も熱烈な…。自分は大衆じゃないという人こそが「大衆」であって、そんな人たち(大衆)が狙われ、動員された。「大衆は中途はんぱで、どっちつかずのものには動かされない」「まるで女のようだ」とも。大衆よ、目覚めよ!と一人の「大衆」であるぼくはいいたいのではない。かたまりから自分を引き抜いておく、それが個人的自衛権の行使です。自分の権利を不条理裡に奪われたくないからです。
足下(あしもと)を見られないようにするにはどうしたらいいか。いつの時代にも偽りの商品を売りこむ「一流」企業・会社は後を絶たない。「一流大学」というのも大いに怪しいね。一流というのは騙(だま)し上手という意味で、人品を筆頭に住宅、自動車、家電、食品などなど、ありとあらゆる生産物が偽・美装されて市場に出まわっているのが、今日この国の現実です。一流の大学出で一流の会社員で一流の製品を身に着けた、中身は空無・空虚・空即是色の御仁なんて餅に描いたポンチ絵ですな。「ゆめゆめ騙すな・騙されるな!自分よ。」(まともを見抜きたいですね)
この手の悪質業者は後を絶たずというより、生産者にはきっとこんな不届き千万な輩がいると承知して、わたしたちは消費活動しなければならないのです。ウソをホントと言いくるめられても、よほどでなければその悪辣(あくらつ)ぶりは露見しない。ブランド品の偽物で結構という、かわいげのない消費者ならまだ救われます。両者(キツネとタヌキ)とも、ウソは先刻承知だからです。もっと上手がいますよ。同じ偽物なら世界的なブランド品の偽物に限ると。国家ぐるみもあります。ネット通販・オークションはどこまで正直か。盗品が商品だというんですね。目に余るね。
このような生産物(商品)をめぐる生産者と消費者の関係は学校の教師と生徒たちの関係に似ているともいえます。一方的に「正解」(とされるもの)をたれながす教師に対して、生徒たちは文句もいえず、ひたすらそれを受容させられる。その結果、教師に従順であることが生徒の美徳、あるいは本分(服従根性)だと錯覚させられ洗脳されてしまうのです。教師が情熱をもって、あるいは頽廃然として、ブツ切りにされた「情報」(記号・信号)を生徒たちに従順に受け入れさせる教育の手法(スタイル)は、当節でもあちこちで散見(いや蔓延ですか?)されますが、これを「銀行型教育(banking education)」と名づけたのはパウロ・フレイレ(Paulo Freire、1921-1977)という人でした。(ぼくは来日されたおりに、会ったことがあります。無論、彼はぼくを知らない)
彼の主張は「教師は預金者で生徒は金庫だ」というわけです。その伝でいうなら、小学校は「金庫6年」となるのですね。相当に重罪です。どこかの「嘘八百総理」の主導する「なんとかミックス」は、「銀行型経済」で、まさに「日銀」が一役も二役も買っています。買うのは国債ばかりではないという話。「これは一流品(ブランド?)」「上物だよ」とご託をならべられれば、ついにはなけなしのカネを工面し消費(購入)する、この図はまさに「銀行型偽物経済」とでもいうべき。ポイント還元???

この列島の経済事情は国家社会主義のようで、税金をこれでもかと経済セクターに投入されて保護されたた挙句、さらに税制の恣意的な運用で手厚い庇護(どこさ?、といいたいね)に大企業群はくるまれている。これで利益が上がらなければ、それは経営者の資質の問題であり、さらには実体経済の現状が生半可な状況にはないということの明証でしょう。だから共倒れを避けるためかどうか、国家権力(政府・官僚)の仕事はさまざまな不正や違法行為を実行しつつ、その事実を隠蔽し、公文書や記録を偽造・捏造する、自らの悪行為を正当(法律)化する、それだけにエネルギーを注いで経済の規模を大きく見せようとするんです。民衆を疲弊させるための共同正犯。なんともやるせないかぎりだと、ため息をつくのではない。嘘がまかり通る政治と行政の頽廃の無間地獄。
「消費者が王様だというのは、商品の品質、安全、適正価格を決定するものが、生産者ではなく、消費者だということである。生産者は、商品の品質、安全、適正価格のあくまでも提案者にすぎず、消費者こそ批判者であるはずである」(久野収「独占批判の論理学」)
学校の教室におきかえて、これを考えてみる。商品(教育内容・価値)の品質、安全、適正料金を決めるのは教師ではなく生徒たちだといえますか。教師の提案(言い値・符丁では「ももひき」という)に無批判であることが自分(生徒)にとって存在の根拠となるような経験を長年にわたってさせられる以上、「消費者こそ批判者」だなどとは信じられないことなのです。嘘やごまかしをも含んで商売や教育が成り立っているという不幸をどう防ぎますか。
今日、嘘と偽装で固められた膨大な「商品」が大量に生産され、大量に市場に出回っています。この嘘や偽りにまみれた商品流通の問題は監督者(行政)・生産者・販売主による三位一体の出来芝居で成立しています。これを「八百長」という。(「××サギ」の異様な流行は現下の政治経済の不道徳非道徳と無縁ではないと思います。この犯罪を擁護するつもりは毛頭ないのは当然)このとき、標的(カモ)にされるのは「批判者であるはずの消費者」です。久野先生、蘇って現実をみてください。卒倒するか、心臓麻痺を起こすでしょう。なにがしかの偽善・偽装が国家の庇護のもとに、あるいは国家自体によってなされると、その詐術を看破できるものではない。そして犯罪やそれに等しい行為の「責任」はつねにうやむやにされる。あるいは問題の所在は消えてしまう。まるで魔術、いや詐術そのものです。「私の責任」というフレーズを口にすれば自己免責の気分になるのかねえ。「私に責任がある」といって、その責任は霧消するという自堕落が後を絶ちません。「責任」という言葉が泣きます。むやみに使ってほしくないですね。
どんな事柄でも「疑おう」としなければ、けっして問題は生じないのはほんとうです。3+4=8 これはおかしい、まちがいであると思わなければ、問題はなし。こんなのばっかりですね。疑問をもつこと自体、大人じゃないねとくる。「国会」の空論大会を聞いていて虫唾が走る。ぼくは長い間、胃酸過多で苦しんではいますが。虫唾が走りすぎます。今はいたるところで繰り返される「八百長政治」「八百長経済」時代なんですね。八百長が正常だなんて、虫唾がまた走る。「中途半端」は「押しの強さに負けるんだ」と嘯(うそぶ)く鷽(うそ)みたいなものども。(小さな声で「鷽」さん、ごめんよ。名付けたのは識者たちだ)いったい「消費者教育」ってなんですか。
鷽(うそ)なくや花も実もなき梅嫌(うめもどき)(正岡子規)