子どもはトランクではない

 教育における自由と訓練との対立は、その用語の意味するところを分析して感ずるような深いものではありません。生徒の心は成長しつつある有機体です。けっしてなじみのない観念を無慈悲にも詰めこまれるような箱ではないのですし、順序正しい知識の修得は、発達する知性にとっては自然な栄養源なのです。従って訓練は、自由な選択からごく自然になされるものでなければなりませんし、自由によって訓練の結果豊富な可能性をうるようになるのが、理想的な教育目標だといえるはずなのです。この二つの原理、自由と訓練とは対立概念ではなしに形成されつつある個性の特性として、あちこちに揺れる自然な心と呼応するように、子供の生活の中に適応され調整されていかなければならないのです。このような発達過程がもつ自然な揺れに自由と訓練とをうまく合致させていくことが、わたくしが別の所で述べた「教育のリズム」の意味なのです。(ホワイトヘッド『教育論』久保田信之訳、法政大学出版局、1972年」)

(*Alfred North Whitehead (1861-1947) イギリスの数学者・哲学者。記号論理学の完成者。また、実在論的な基礎の上に、有機体の哲学と呼ばれる独自の形而上学を展開した。著「科学と近代世界」「過程と実在」など。また、ラッセルとの共著に「数学原理」がある)(大辞林)

 閑話休題としましょうか。「閑話」と少しも変わりがなさそうですね。

 他の人とは少しばかり趣(毛色)がことなるかもしれませんが、とても興味のある「教育原理」「教育哲学」を展開している人としてぼくはホワイトヘッドを読んできました。今から見ても(読んでも)古くなっていないどころか、今こそもっとまじめに受け取られてもいい思想であり、教育論だと思うのです。ぼくが読んだのは『過程と実在』ほかいくつか。ぼくにはとても難解でした。

 「自由と訓練」とはいかにも英国風ですが、彼の語るところに耳を傾けてみましょう。古代の諸学派では哲学者たちは「英知」(Wisdom)を授けることに情熱をもっていたが、現代の大学教育(ですらそうなっているのだから、それ以下の諸学校の状況は言うまでもなさそうです)では教科目を教えるだけという卑しい目的に転落・堕落してしまったといいます。(彼はケンブリッジ大学やハーバード大学をはじめいくつかの大学で教壇にたった)

 「わたくしが力説したいことは、知識はたしかに、教育の主要目的ですが、もう一つの、これは莫然としていますが知識より偉大なるもので、その重要性において他に匹敵するものがないほどの、もう一つの要素があるのだということです。古代人はこれを英知とよんできました。知識の裏付けなしに賢くなることはできませんが、英知を欠いたままで知識を修得することはいとやすいことなのです」(同上)

 英知とはなにか。彼に言わせれば、それは知識をコントロール(応用)し、いい結果をもたらすための選択肢を示し、「われわれの身近な経験に価値付けをしてくれる」ものであって、その「英知」こそ、本質的な自由だというのです。「知識の修得」という訓練と、そこから始まる「英知」にいたる道こそが自由によって敷かれているのです。

   だからこそ、と彼は力説します。「教育は、トランクのなかに品物をただ詰めるようなものでない点忘れてはなりません。トランクに品物をただ詰めるという比喩とはまったく異なるものです。教育はいうまでもなく完全にそれを受けとる側の選択を前提とする活動です。わたくしの意味するところに最も近い比喩をあげれば、生きている有機体による食物の消化のようなものです。適当な条件さえ整えば、口に合う食物が健康に最もよいのだということはご存知なはずです。トランクのなかに長靴を入れるという場合は、再び取り出すときまでそのままそこに入っているでしょう。しかし子どもに腐った食物を与えたら事態は大変なことになってしまうのです」(同上)

 子どもはトランク(入れ物・コンテナ)であり、教師の話す・伝達する言葉(知識じゃないでしょ)は長靴だ、腐った食物だというような教育(授業)が白昼堂々と蔓延・横行しています。まことに手に負えない事態とはこのことです。「英知」に向かう気づかいなど一切ない、たんなる細切れの情報や言葉の断片を授けることが教育の別名になっている事態に、さてどう向きあえるのか。

 そんなむごい授業が進むに応じて「この長靴は歯ごたえがある」だの、「このハイヒールは乙な味だね」などと洒落にもならないことをいう(いやな)子どもが現れる始末です。要するに、教師に迎合するんですね。子どもをそのようにそそのかすんですよ。世間では「学校優等生」の大量生産企業(別名「進学校」という)がのさばっているんじゃないですか。子どもにとっては、自分を教師に無条件であわせるのがもっとも大切であるとされます。子どもをして、そのように仕向ける大人の責任は看過できないし、許せないと思います。ぼくの体験からしてもそういえます。

 「知識の裏付けなしに賢くなることはできませんが、英知を欠いたままで知識を修得することはいとやすいことなのです」

 ここで、はるかな昔の人間であるホワイトヘッドをことさらに引用したのは、「教育はいうまでもなく完全にそれを受けとる側の選択を前提とする活動」だという、彼の指摘をまともにうけとめたいと思ったからです。ぼくはいつでも教育(授業)をそのように受け止めてきました。指摘通りの活動ができたかどうかはまことに疑わしいのですが。そのような指摘が時代や社会を超えていまなお妥当すると思われるのは、教育というものが「完全に受け取る側の選択を前提とする活動」なんかではないものとして、「教える(与える・授ける)」側の都合ばかりが斟酌されるものになっているという不信の念がぼくにあるからです。それはまた多くの方の実際の経験ではなかったでしょうか。(彼の講演がなされたのは1923(大正12)年のことでした。「めだかの学校」の草創期ですね)(筆名『ぼくは「トランク」も「トランプ」も嫌いだ』) 

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。

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