野生と理性について

 「私たちは自分で思っているほど、いつも合理的ではないのではないか?その証拠に事前に結果を見通すよりも、ことが起こったあとに言い訳をするほうがみんな得意なようだ。私たちが知的な生き物であるあることは疑いようもないが、同時に思考や行動にバイアスをかける強力な傾向や感情を持って生まれたことも事実である」(フランス・ド・ヴァール『利己的なサル、他人を思いやるサル』西田・藤井訳、草思社、1998年)

 ヴァール(1948年生まれ)さんは生物学・動物行動学者です。じつにたくさんの著書があります。どれもこれも、ぼくにはまことに面白く読めました。「類人猿」などと気安くいいますが、なかなか一筋縄ではいきません。彼の本に引き寄せて言えば、「類猿人」ではないかとさえ思えてきます。思えてくるというより、猿が先行しなければ、人は今とはちがっていたはずですから。氏はオランダの生まれ。現在はアメリカ在住。何か一冊、手に取られると、つまりは読むといいですね。抱腹かつ絶倒ものだし、少しは賢くなったという自覚が芽生えました、ぼくには。つまり猿を超えようというのは不届きだという戒めであり、人間の分際ということをよくよく見極めろという教えでありました。引用書の副題は「モラルはなぜ生まれたか」です。仲間を大切に、それが自分を尊重することにつながりそうです。そんな肝心なことをチンパンジーさんから教えられた。


 チンパンジーはいじめられた者をやさしくなでて、「慰め」る。人間も泣いている子を抱きあげてあやしたりします。だから両者は同類だと言えないにしても、根っ子には同じような部分があると考えた方がいいのではないか。つまり人間の脳は進化の産物だという意味です。人間の地位をあまりにも過大評価しないように注意したい。進化の逆方向が退化であり、それがあまりにも目立つ時代や社会の状況ではないでしょうか。ほんとに猿類から「進化」したのでしょうか。

 道徳とはちょっとした不注意から、ご当人も(巻き込まれた)他人も「不幸」にならないためのプログラム。国家や民族などというご大層な概念とはあまり関係なさそうです。つまりは社会で生きる個々人の問題だと思うのです。「不幸」というのは、あわてて階段を駆け下りて転んで骨折する。かっとなって他人を傷つける。油断していて信号を見落とす。その結果、深く後悔するといったような、「不注意」から生じる不都合(=不幸)のことです。こんな不幸ならなんとか防げそうじゃないですか。ここに「道徳の問題」があるのだとぼくは考えています。自分の不幸を願う人はいないのですから、不注意によってまちがってしまう(あわてて、よく考えないで、怒りにくるってなど)状況に陥らないために自分を救い出す方法であり、不注意によるあやまちから解放され(自由になり)、幸福であろうとする、そんな方法を考えるのが道徳教育、そのようにわたしは経験からも学んできました。 ”Pay Attention!” 「よく注意しよう!」「注意深くあれ!」「注意一秒、怪我一生」という「標語」はいいけれど、表現以上の深い内容があるっことに公安委員会はきづいているのかどうか。。

 「アメリカ人のドーン・プリンス=ヒューズは、だれかと結びつきたいと切実に願っていた。自閉症の一種であるアスペルガー症候群の彼女は、まわりの人とうまくつきあうことができないのだ。ところが動物園のゴリラを世話するようになって、彼女ははじめて心の平安を得ることができた。いや、世話をしていたのはゴ リラのほうかもしれない。プリンス=ヒューズの本を読むと、周囲の人にまっすぐ目を見られたり、単刀直入な質問にすぐに答えを求められたりすることが、彼女の神経をさかなでしていたことがわかる」

 「それに引きかえゴリラは、彼女を追いつめないし、視線を合わせない。その平静沈着な様子に、こちらの気持ちも慰 められる。何よりも彼らは忍耐づよかった。ゴリラは、正面から顔を合わせるような接触をめったにしない。類人猿はみんなそうだが、目に白目の部分がない。だから白目の多い人間の目で見られると、落ち着かない気持ちになる。人間の目は、伝えたいことを大きく増幅してくれるが、同時に黒目しかない類人猿のよう な微妙なコミュニケーションには向かない。だいたい類人猿は、ちらりと視線を走らせるだけで、私たちのようにじっと見つめたりしない。また周辺視野がとても広く、視界の隅にちらりと入っただけでもちゃんと見えている。これは慣れるまでたいへんだ。チンパンジーやボノボが見すごしたと思っていたら、そうではなかったことが幾度もあった。彼らは何ひとつ見逃さない。」(ヴァール『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』藤井留美訳、早川書房、2005)


 類人猿がなかまをとても大事にすること、そして毛むくじゃらの彼や彼女らに人間が深い親近感をいだいていることを、身をもって私たちに教えてくれたのが人間関係をうまく結べない「自閉症患者」であったとは、いかにも考えさせられる話だとヴァールさんはいいます。チンパンジーやゴリラなどの類人猿が仲間を大事にして助け合うというのは本来の性質で、いわばそれは「野性」です。しかし、だれでもそれがわかるとはかぎらないのです。ここで使われる「野生」という言葉をじゅうぶんに把握したい。野生が動物本来の性質なら、人間の本来の性質はなんですか。「そうでない者は話される言葉にとらわれすぎて、態度や身ぶり、表情、声の抑揚など言葉以外の手がかりを十分に理解できない。身体が発するさまざまなシグナルがないと、私たちのコミュニケーションは感情的な内容が抜けおち、無味乾燥な情報しか伝わらなくなる」(同上)

 動物性をぬ脱ぎすててどこに行くのか
 人間も進化の過程で群れて生きることを学んできたはずです。だから仲間はずれに対する恐怖心はとても強いのでしょう。動物学では「必然的群居性」がある動物だと人間を規定しているほどです。つまりわたしたちは「骨の髄まで社会(集団)的な生き物」だとされる。ひとりでは生きてはいけないということをどう考えるか。人間は動物である部分(野性)を洗練させただけ、動物的ではなくなってしまったと思いこみ、人間性に必要な根幹の部分(他者に対するやさしさとか、「白目」の部分ではなく、「黒目」の部分とか)をそぎ落としてしまったにちがいない。ある地点で動物の分際を超えた瞬間(パンドラの箱を開けたとき)に人間はあらたな難問や難題をかかえこんでしまったのです。「考え足りないし、考えすぎる動物」中途半端な動物だともいえそうです。(もちろん動物の部分は確実に残っている。いやそれを含んで「人間」であるというのです)

 ヴァールさんはおもしろい譬えをつかっています。二十年も乗っていたダッジ(車名・1914年創業のアメリカ自動車会社のブランド。いまでは社名は消えて、合従連衡の痕を残している。)は全体重をかけてブレーキを踏まないと完全に止まってはくれなかった。そう、自動車でもっとも重要なのはエンジンなんかではないということを教わったというのです。今日ではアクセルとブレーキを踏みまちがえる事故によってあちらこちらで大きな不幸を生みだしています。アクセルよりもブレーキ、それがだいじですね。アクセルはいらないかも。ぼくは時速「10キロ」以上は出せない自動車をほしいとずっと願っています。コンビニエントじゃありませんが、不便だからこそ、猿知恵ならぬ人間知性が鍛えられるのではないですか。人間の歩く速さも「時速3キロ」くらいがちょうどいいじゃん。3キロ同士で衝突して、どうなりますか。

 レストランの予約時間に遅れそうだからと時速百キロ近くで走行して人を死に至らしめるという事故を、どういえばいいのか。やたらに高速で走る車に乗った「猿」ならぬ「人間動物」とでもいいますか。仮に事故を起こさなかったとして、なんとか食事にありつけて、それで満足なのかね。考えが足りない(大きな不注意から)から起こった不幸で、とりかえしがつかないでしょう。車ならぬ人間にもアクセルだけしかないような人が電車や人ごみの中にいそうで、こちらが注意していても避けられない不幸というものがあるのです。じつに理不尽極まることがらです。

 「自然界においては、自動車のブレーキと同じくらい重要なのが、行きすぎを正し、つりあいを保とうとする抑制均衡の働きだ。すべてのことは統制され、制御されていなければならない。(中略)/ 抑制均衡の原則は、社会のなかでの傾向にも当てはまる。競争か協力か、利己的か利他的か、闘争か調和か。すべて最適な条件のもとにバランスがとれている。利己的になることは避けられないし、必要なことだが、それにも限度がある。人間には二つの顔がある…。私たち人間は、相反するさまざまな力の産物だ。自分の利益だけを追求したいし、ほかの人ともうまくやりたい。私は後者について多く語っているかもしれないが、それは従来の考え が前者に偏りすぎていたからだ。ほんとうは両方が密接にからみあって、生存を支えている。けんかのあとの和解など、平和を積極的に保つ能力が発達したのは、摩擦があったからこそだ。二極化した世界では、どんな能力もその正反対をほのめかしている」(同上)

 しばしば「教育の祖型」とでもいうべき関係を「教える」「教えられる」の関係であるという。たいていの学校は「教え、教えられる場所」(教場・教室)になっています。家庭においてもしかりです。(なぜ勉強部屋を持ちたがるのか不思議やな、と少年のぼくは思っていました。さいわいに家が狭隘だったので、外遊びに没頭し、「勉強」を強制される災難を免れました。しかるに、この子ども時代の悪習慣が根強く残って、学校を終えてからも相当に長く「外遊び」が止むことはありませんでした。それが収まったのはほんのここ数年のことです。でも、いまは室内遊びに夢中?でもありませんが、ご覧のような駄文を書きなぐって遊んでいます)いったいなにをそんなに「教える」のかと疑問に思ったことがありませんか。親や教師は親切心から(でない人も、ときにはいますが)子どもや生徒たちにいろいろと「教える」、「教えすぎる」けれども、どのような目的をもって「教える」のか。子どものため、生徒のために「教える」のだとおおよその見当はつきますが、はたして「教えられる」ものの中身はなにか。危険に遭遇して自分でブレーキを踏めるかどうか。そこに学校や教育問題の核心があります。

 「お手」や「お座り」と飼い主は犬に教えているつもりで、その通りにできれば満足で、そうでなければ満足しないとなれば、人は自己満足を求めて「教えている」ことにならないか。ベストを着たり、パンツをはいたりしたいと言い出したのは、犬?猫?やがては犬・猫の専用「ユニクロ」が誕生するかも。知らぬはお前だけ、すでに出店は加速中かもわかりません。最近は犬・猫はおろか、オウムやインコまで、相当にスパルタを受けていると心配になります。たぶん、すべてとはいわないが、多くの学校でやられているのは、犬に上着を着せたり、猫にダンスを踊らせたりするような「野生」を無視した蛮行教育じゃないかと心配になるときがあります。人間の子ども教育の実際は、あるいは犬・猫に「小判」「お経」の類かもしれない。豚に真珠、馬の耳に念仏。つまるところは「蛇足」「無用の長物」だと思いたくなります。バカになるのもカシコクなるのも自分次第。大人はやたらに手出しして、それ(子どもの自分次第)を邪魔しないこと、そのブレーキが踏めますか。(「申(さる)年」生まれの類猿人?)

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