捕まったが最後…

 天候の悪い日は室内で野放図に時間を無駄使いしている。you tube 濫視もその一つ。つい最近は『日本の黒い夏―冤罪』(日活・熊井啓監督。公開は01年3月)を見た。映画化のもとになったのは長野県松本市で94年6月に発生した「松本サリン事件」。これを題材にした県立松本美須々ケ丘高校放送部制作「テレビは何を伝えたか」に描かれた事件をめぐるマスコミの報道姿勢とその妥当性に対する深い疑念が映画化の動機になったとされます。

 住宅街での「毒ガス発生」直後に、発生現場近くの住人が警察に通報。後に家宅捜索を受け猛毒の「青酸カリ」が押収されたこともあり、この第一通報者(河野義行さん)は警察やマスコミによって「真犯人」に仕立てられる。妻は有毒ガスを吸引して意識不明の重体に(発生から14年後に亡くなられました)。(余談ですが、彼女の父はぼくの高校時代の「地学」担当教師だった)

 いかにして心ない組織や個人の共同作業(共同正犯)で「冤罪」が作られていくか、それが主題。作品の評価は、いまはしない。いつでもどこにでも「冤罪」の種は尽きないという、やり場のない憤懣を、改めてこらえきれないでいるというほかありません。

 この映画製作とほぼ同時期に以下のような「冤罪」事件とそれにかかわる、奇妙奇天烈な裁判(判決)が行われていました。同じような事例は劣島のあちらこちらでも。題して「捕まったが最後…」 

 99年1月、愛媛県宇和島市の女性が自宅から通帳と印鑑が盗まれているのに気づき、50万円が引き出されていたことが判明。県警宇和島署は翌2月、防犯ビデオに映った現金を引き出す男に「似ている」という証言から、男性を任意同行して逮捕した。男性は窃盗罪などで起訴されたが、結審後の00年1月、高知県警が別の事件で逮捕した男が盗みを自供。同年2月、男性は約1年ぶりに釈放された。検察側は同年4月、無罪論告をして法廷で男性に謝罪。愛媛県警も会見して謝罪した。翌月、松山地裁宇和島支部で無罪判決が出て確定した。(毎日新聞・2006/1/13)

 「無罪」でよかった、と「もろ手を挙げてバンザイ」じゃありません。盗りもしないのに逮捕され、あろうことか有罪判決。それも、一年以上も拘置されていたのです。警察・検察の罠にかけられた男性が起こした賠償請求訴訟の判決が06年1月18日に松山地裁でありました。裁判長は「供述の強要や誘導などはなく、捜査に違法性はなかった」と、男性の請求を棄却した。無理無体に「犯人」に仕立てた、それこそ違法じゃないですか。この事件および裁判から十数年経ったが、あいも変わらず、警察・検察・裁判にかかわる事態は少しもかわらないという構造をどうしますか。

 「犯人でもないのに、犯人にさせられた」からには、そこに強制・強圧の捜査があったとみるのは「合理的」。だが、この化石裁判官氏は請求を棄却した。ああ無能!警察側は「男性は自ら進んで“自白”しており、強要はなかった。(盗んだ金の使途や隠し場所などの)裏付け捜査も十分」と、これまた間抜けな陳述。なんのこっちゃ。これも今に変わらぬ、人間性を虚仮にした嘘と歪曲の極致。このような「真っ赤な嘘」のごり押しは警察だけではなく中央官庁でも国会でも、いまなお白昼堂々と(盗人、猛々しく)実行されているのです。

 進んで自白し、進んでムショにはいりたがる、そんな奇特な人間もときにはいるけど、「(盗んだ金の使途や隠し場所などの)裏付け捜査も十分」とは、どういう意味か。犯人になるために、この男性は自分で「偽装」したとでもいうのか。(いくら偽装ばやりの世の中でも、それはないよ)でも、このすり替えと自己弁護の「三分の理」が、どこかの「ソーリ」の胸糞の悪くなる答弁になんと酷似していることか。(碁・将棋でいえば、すでに詰んでいる。見苦しいし、恥ずかしい。あれえ! 裸で出歩いている、気づかないふりをしているね。子どもに聞いてみな。地位に恋々とね。)

 捕まったが最後、この国(警察や検察)では白を黒、それも真っ黒に塗りたくる。そして、「わたしは白です、やってない」という人間に対して、「警察(検察)が黒だというのだから、お前は真黒だ」と判事が斬りすてる。病院にいけば「病人に仕立てられる」、学校に入れば「人間性を壊される」人権侵害を訴えた警察では「さらなる人権侵害が」、かかる「理不尽は許さない」と裁判にすがれば「お前を訴えた側(病院や学校や警察)に落ち度はない」と「今様越前の守」はふんぞり返る。(ぼくは、いまは亡き加藤剛さんが好きだった。ぼくにないまじめさがあったから。それで…?)時代遅れの「法服」を着て、高所から呪文を唱え、「請求は却下する」だって。(判決を「下される」側は悲劇だが、悪いけどこれこそ「抱腹絶倒」の図だよ。判事には咎はないんですか。無謬なんですか。裁かれないんですか)

 さて、どうするか。なにより肝心なのは、他人に頼らないこと。それにかぎります。病気にならない、なったら自分で治す。治る力は自身にある。警察の厄介になるような状況を金輪際作らない。「捕まったが最後」だから。本当に学びたいなら学校に行かない。行けば、興味のないことを強いられる。さらに、心も体も傷つけられる。学びたいものを見つけて、じっくり自分で自学・自習する。そうすれば、学んだものはきっと自分の栄養(力)になる。「教師に頼る」という甘ったれた根性がまちがいのもと。(教職の「営業妨害」をするのではない。可能なかぎり、自学自習を阻害・邪魔しない教師であってほしいと願うだけです)

 専門家がそれらしい顔をして、素人を見下す時代が長くつづきました。他人を軽蔑したり、見下したいために専門家になるのですか、と減らず口をたたきたくもなる。そうだとすると、動機はじつに不純だし、第一、その了見が卑しい。自称・他称「専門家」すべてはそうじゃないでしょう。とすれば、まともな専門家になりきれぬ「半ちく専門家」がなけなしの権威(あるいは特権)をふりかざし庶民(大衆)を苦しめるということか。自分もまた「大衆」なのに、さ。「天に唾だね」見苦しくも無残な風潮です。まずは危うきに近寄らず。不用意にそんな「風潮」に巻きこまれないようにしたい。(南無三)

《氷見冤罪で県に賠償命令 富山地裁、国への請求は棄却 2015/3/9付・日経

 富山県氷見市で2002年に起きた強姦事件で再審無罪となった柳原浩さん(47)が、違法な捜査で逮捕、起訴され、約2年間の服役を強いられたとして、国や県に約1億400万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、富山地裁は9日、県に約1966万円を支払うよう命じた。国への請求は退けた》

(▼氷見の冤罪事件 富山県氷見市で2002年に発生した強姦事件で、タクシー運転手だった柳原浩さんが誤認逮捕され、富山地裁高岡支部から実刑判決を言い渡され、約2年間服役した。06年に鳥取県警が強制わいせつ容疑で逮捕した男の自白から誤認逮捕が判明し、富山県警と富山地検が柳原さんに謝罪した。柳原さんは07年に再審無罪が確定した)(日経新聞)

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dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。