
房総半島の一隅に転居して、はや九年が過ぎました。何気ない一日を送りたい、そんなことを夢想していたわけでもなかったのですが、住んで見れば、なにかと世間がついて回るというのか、夫婦二人ながら、生きることに齷齪(あくせく)しているという身の貧しさであります。表題は蕪村の句。何歳ころの句でしょうか。秋の夕べ、つらつら老いた我が身を思いつつ、明日になれば、昨日の老残を偲ぶことになるのか。とするなら、明日もまた、「身の秋や」と老いを実感しながらも、なんとなく生きて行くような気にもなるのでしょう。歳を取るというのは、「今宵をしのぶ翌(あす)もあり」という感慨を抱きつつ、抵抗する術もなく流されて行くことなのかもしれません。

「人生百年時代」と他国のどなたかが言われたとされています。さすれば、この国だけが「百年時代」を「謳歌」するでもなく、「呪詛」するでもなく、いのち存(ながら)えて、長命・長寿を受け入れざるを得ないという、いやいやしながら「老ノ坂」を下っていくことに、何かしらの寂しさを託(かこ)つことにもなるのでしょう。この時代は「高齢者」を尊敬しない、そんな風潮が蔓延していると思うのは、年寄の「僻(ひが)み」だと思われますか。ぼくと同年生まれの、京都在住の友人は、「今日一日を、どう過ごそうか」、そんな悩みを断ち切ることができないという、口にしても詮無い寂しさを訴えておられます。ぼくはそれに反応(応答)することができればいいのでしょうが、当人こそが、「どう過ごそうか」と思い悩んでいるのですから、手に余る問いかけだと思うばかりです。長く生きることが「幸せ」かと問われれば、即答はしかねます。そもそも「幸せ」ということそのものが「感覚」なんですから、同じ状況を、まったく別の受け止め方をする人もあるはずだし、同一人だって、同じ事態に別の反応を示すこともあるのですから。雨が降れば「憂鬱だ」と、多くは雨天をきらう。しかし、人によっては「干天の慈雨」のように、それを歓迎することもあるのです。
一月足らずで、ぼくは七十八歳になる(と、その時まで無事であると、勝手に思い込んでいる始末です)。一寸先は闇とは、特定の人に限られない、無常人生の不確かさをいうのでしょう。「朝に紅顔あって世路に誇れども、暮(ゆふべ)に白骨となって郊原に朽ちぬ」と説いたのは藤原義孝でした。(「和漢朗詠集」)ぼくは、この節をお経(御文章)の一部になったものとして、これまでに何度聞かされたことでしたか。「紅顔」を偽るは「厚顔」に過ぎますが、いかんせん、歳を重ねても「白骨となって朽ちる」ことに思い煩うのです。

ましてこの二年半以上も、「いのちのはかなさ」を見せつけられています。交通事故で亡くなる人よりも、遥かに多数の人間が、今日の文明の進んだと言われる時代に「命を奪われて」いるのです。コロナ禍と他人事のように言っていますが、明日は我が身どころか、今日こそ我が身と想う外ないような、綱渡りのような心細さを打ち消せないでいるのも事実です。先進医療というもの、現代文明というものが、ひとりの命の重みを受け止めかねているのです。「助かるいのちも助からない」と要諦にある政治家や医療行政者、あるいは医療のあり方を左右してきたような学者研究者が、何の外聞も、恥じらいもなく言ってのける始末の悪さです。
ぼくたちが生きている地盤は盤石ではありません。天変地異に、一瞬にして、手もなく崩壊させられることは言うまでもなく、善意の不作為によっても、たちまちに毀損されてしまう。今日、最高水準を誇る「人為(科学技術)」も、天変地異の被害を、あらかじめ大規模にする用意はあっても。その被害を減ずることにならないのはどうしてでしょうか。「盤石」というのは表面(見た目)だけであって、底なし沼の上に建てられた「楼閣」(にもならない)、その実は「苫屋(とまや)」にゆとりなく住み暮らしながら、ぼくたちはそれが、「安住の地(終の棲家)」であることを疑わなかったということではないか。山あり谷あり、河あり堤防ありと固く信じていたにも関わらず、それまでの「営為」は、まるで泡沫の如くに押し潰され、水泡に帰してしまうのです。政治や行政の不作為を嘆いているのではありません。生きているということの中に、これらの「負の仕業・運命」もまた含められているのであり、それを避けることはできないのだと、今にしても思いをかけつつ、そうじゃないだろうという一抹の「希望」も、未練がましく持っているのです。
・門を出れば我も行く人秋のくれ
蕪村の句ではないような、寂しさが横溢していそうな雰囲気があります。「秋」だからこそ、なんですかね。
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● よさ‐ぶそん【与謝蕪村】=江戸中期の俳人、画家。摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)の農家に生まれた。本姓谷口、のち与謝。別号宰鳥、夜半亭二世。画号四明・春星・謝寅など。一七、八歳のころ江戸に出て、画や俳諧を学び、俳諧の師巴人が寛保二年(一七四二)に没してからは江戸を去り、一〇年あまり東国を放浪した。宝暦元年(一七五一)京都に移ってからは、しだいに画俳ともに声価を高め、明和七年(一七七〇)には夜半亭を継ぎ宗匠の列につらなった。さらに安永二年(一七七三)には「あけ烏」を刊行し、俳諧新風を大いに鼓吹した。俳風は離俗、象徴的で美的典型を示しており、中興俳諧の指導的役割を果たした。一方、画にすぐれ、大雅と並び文人画の大成者といわれる。著「新花摘」「夜半楽」「玉藻集」など。句集に「蕪村句集」がある。享保元~天明三年(一七一六‐八三)(精選版日本国語大辞典)
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秋の陽を浴びながら、由無し言・事を愚考しています、そのままを駄文に捉えてみると、なんともふしだらな表情・表現になってしまいました。愚考の種は尽きません。その内のなにがしかを「つれづれなるままに」書き捨ておこうという悪趣味です。水分補給を怠らず、十分な睡眠を確保して、来る秋、行く秋を楽しみつつ送りたいという、わが切願の情に著しいものがあります。(2022/08/27)
