
何ぞ思たはるか
それは何歳のころだったか。両親のわりない関係にいたいけな心を殺し、息をひそめて生きていた。憂いに沈んだ日々の明け暮れ。ある日突然、機嫌よくコロッケを作り、食卓を用意しだした。不審に思った母に「あんた、何ぞ思たはるのとちがいますか」「死ぬ気いとちがいますか」と見透かされて、必死の思いの女の子は泣き崩れた。みずからを亡き者にすれば、あの父でさえも母を粗末にすることはないだろうと、覚悟の上だったのに。「あんたが自殺したら、お父ちゃんにもっといじめられてお母ちゃんも生きてられへん。つらいやろうけど生きてて…。」小さな頭には想いもつかいない言い草だった。(『ひとを生きる』)

母親に生かされたというにはあまりにも苛酷な試練だった。岡部伊都子の最深部に悲しみをたたえた、他者への尽きぬあこがれが生みだされたのは、このような胸苦しく、息のつまるような生活の渦中からだった。

小さなこだま
何度も自殺を考えたが、母の懇願がそれを許さなかった。「私は不器用に幕の紐を握りしめて、いつ自分の緞帳をおろそうかとぼんやりしてゐる」と離婚の二ヶ月前に書いた。「幸福な世間体」と「うつろな内容」の分裂に張り裂けんばかりの崩壊感を抱きつづけた結婚生活だった。人間を尊重しない男に保護された生活を送るより、「道ばたに飢え死にしてもいいから、ひとりになりたい」と思いつめた。どんなことをしてでも自分を養おう、養えなければ飢え死にする、その決意だった。(『あこがれの原初』)

努力や献身が通じない空虚をみつめ、「幸福な妻」を演じることに絶望した。だが、「何のために生きているか」という執拗な自問自答が岡部伊都子を生の深淵から人間に連なる世界へと導いた。「魂が生きなくて、人間は生きてゆけない」と悟ったとき、新たな生が始まった。

しゃぼん玉
童謡「しゃぼん玉」が愛唱歌のひとつだった。「身にしむ歌」ともいった。いつか伊都子さんが唱うのを耳にした、ような気がする。「きえた」と歌うたびに、きっと何かが消える。後にさびしさが残る。たまさかのいのちの浮遊なのか。わずかに飛んで「こわれてきえた」ものが、どれだけあったか。「希望・信頼・思慕・約束・意欲・期待…。」生まれてきては、こわれて消え、飛ばずに消えた。玉は魂である。いのちは玉の緒だから、「幾度ももうこれまでと覚悟した身」ながら、一条の玉の緒はつづくと、伊都子さんは書いた。(『玉ゆらめく』)

ものみな生まれて消える。すべてはだ。だが、空だからこそ存在は可能となる。自己も空、その空なるものから、なにが生まれるか。「空をにらんで、その中から、ふたたび切実に構成されてくるぎりぎりの要素を、自分の個性としよう」(『あこがれの原初』)
この尋常でない背水の陣において、岡部伊都子の魂は端倪すべからざる精進によって育まれた。

差別からの解放
「私には何の学問的知識もない。思想的根拠は何ひとつない。ただ、なま身の人間としての感覚」にうながされて、戦争をなくし人権を尊重したいと念じてきただけだった。これを肺腑の言と受けとめない世の軽薄さと対峙した。岡部伊都子は剛直だったし、そうであるために勇気を奮い立たせて生きた。なのに、ひとりの人間のよろこびや悲しみを書けば、それがいつしか「美を語る」といなされた。そのあしらいをもとにして生きた。

何かをいえば、叙情的だとされた。まるで「叙情も感傷も情緒も余分なもの」と言わぬばかりに。感性の欠けた理知や論理がどれだけ差別を深め、不正を助長したことか。「人間を人間らしくと願う闘いのなかにも、往々みられる非人間性。自らの非人間性とまず闘う人々が、地味ではあっても信頼できよう」「挫折に終わらず、挫折から出発を」(『秋雨前線』)
もろい側に立つ、そして、立ちつくす。これこそが岡部伊都子の流儀だった。まことに、愚直な流儀だったと腹の底から思う。

努力する道が花道
「よりよき方向へ至ろうと努力する道は みんな 花道だといえるであろう。いま 生きて歩いている この苦しい道以外に 花道なんて あるはずがない。」何かのおりに、「花道」と題した、この直筆の原稿をいただいた。「苦しい道を、あんさん、歩いてはりますか」と深く問われたと知った。まっすぐに姿勢をただして、岡部伊都子は荊棘の花道を歩きつづけた。見得も切らず外連も見せず、まして六方を踏むこともなく、ひたすら水平の彼方をめざして歩いた。

一瞬、鳥屋の揚幕があがった。すっと、岡部さんは消えた。伊都はん、さいなら。
(左の写真は、友人だった、今は亡き麻生芳伸氏の撮影。鴨川堤で)
岡部伊都子(1923-2008)さん。多くの教えを受けた人でした。生前には親しくしていただきもした。上の拙文は、ある雑誌に依頼されて書いた「追悼の記」のつもりです。彼女は大阪生まれでしたが、早くに京都住まいをされていたので、ぼくは幼いながらに名前だけは知っていた。後年になって、岡部さんがどういう方であるかをつぶさに知り、敬愛の念が募った。さいわいなことに、いくつかの事情が重なって厚情を賜るという幸いに恵まれた。これは実話であるかどうか、ぼくはよく確かめなかったが「京都 大原 三千院 恋に疲れた 女が一人」(永六輔作詞)の主人公だということでした。 岡部さんは「弱いから 折れないの」とつねに言われていましたが、しなやかで強靭な精神の方であったと、追憶の意をもこめて、改めて知るところとなった。(コロナ禍に見舞われていた四月二十九日は岡部さんの「十三回忌」でした。合掌)(S.Y.)