教師の仕事は「教えないで、質問する」ことだと再三いってきました。ここでもまた、同じことをいわねばならない。「教えないで、質問する」とは、当の問題があまりにも微妙で、しかも生徒にとって大切なものだから(もちろん教師にも)、窮余の一策とでもいうもので、質問するほかないという意味合いです。反対に、生徒たちにとってどうでもいいこと、たいして重要ではないことならいくらでも教えられるにちがいない。また、教師が答を知っていて(知らぬふりをして)、生徒に問うというのは相手を見くびることにならないかどうか。当人にとってほんとうに大事なことは自分で気づく(発見する)しかないものです。事実、教育においては「教える」側が「教えられる(学ぶ)」側に依存しているのです。

「学」は「まなぶ」と読み、「まねぶ」(まねる)を表します。「覚」と書いて「おぼえる」と読ませ、それもまた「まなぶ」を意味します。元来、「學」も「覺」も同根だとみられていました。その「覚」はまた「さとる」とも読む。「まなぶ」から「おぼえる」まできて、さらになにかを「さとる」(発見する)に至る。これがものを「まなぶ」深い姿ではないかと考えます。そのとき、教える側はどこに持ち場を見出すか。本領はいつ発揮できるのか。
教師の仕事が教える(つめこむ)一方に終始するなら、生徒が「さとる」(発見する)機会は、あるいは奪われてしまわないか。「教える」というのは、一面では「学ぶ」の後塵を拝するもので、その逆ではなさそうです。主導権は「学ぶ側」に占められています。生徒に興味・関心(学ぶ意欲)が生じてこなければ、教える側はお手上げです。あれこれ伝達する(教えこむ)技量を磨くより、生徒がみずから学ぶ姿勢なり態度を育てること、それは「教える」の極意(核心)とならないか。自分流に学ぶ方法を生徒がみずからのものにするためにこそ「教える」のです。教師にとって比類のない大事な任務となるはずです。
「話す―聞く」と「教える―学ぶ」

「教えないで、質問する」、それが教師の仕事だと冒頭にいいました。分からないから質問する。知っていて質問するのは教師の常用技(詐)術であっても、容認できない。「教師が教え、生徒は学ぶ」、それは教室になじんだ風景と映りますが、実態は「教師が話し、生徒は聞く」ではないかと疑われます。「しっかり読んでごらん」「よく考えなさい」などと指示しても、それがどんなことかが生徒に理解されなければ、ことばの投げ売りにすぎないでしょう。「生きる力」「ことばの力」云々も、ことばの綾ではないかといえば言が過ぎると非難されそうです。でも、「教える―教えられる」という立合いは生半可な仕種では達成できないのはだれでも知っています。
「教える―学ぶ」を「話す―聞く」ととりちがえていないか。教師は自分が話すことを生徒に聞かせるだけとはいわぬが、ほぼそれに近いのが実情ではないか。生徒の側も教師の話を聞くのを「学ぶ」と勘ちがいしかねない。教師は生徒がはじめて耳にすることを話し、生徒も考えをめぐらすために沈黙し、新たな意見を求められるのです。陳腐なことばのやりとりではないからこそ、授業は立合いとなるのです。肝心なのは、学ぶ態度や方法を生徒が自己のものにする地点まで教師もともに歩くことです。ぼくは、それを「教える」の真義としたい。
「話す―聞く」という関係はけっして固定したものではない。ときには生徒が話し、教師が聞く、それはきわめて自然で、ここにおいて聞くは「訊く」となり、教師が生徒に、生徒が教師に訊く。それが「質問する」の主意です。知りながら訊くのではなく、知らないから、知りたいから訊くという愚直な態度を教師自身も育ててほしい。

生徒自身が下した判断でみずからの行動を律する、そのためには生きた(経験に裏打ちされた)ことばが欠かせないのです。なぜか。そのような判断力を養い育てた個々人によってなり立たなければ、当人が所属する集団は幸福にはならないからです。
なんのための教育かと自問し、ある集団に民主主義の原理(一人称で語る権利=発言する自由の尊重)が機能するためには、自立(自律)した個人がどうしても存在しなければならないと自答するのです。借り物の知識やにわか仕込みのことばをどんなに蓄えても、自分のいいたいことには不自由する。いずれも身の丈に合っていないからです。ことばもまた、借り着では用を為さないのは明らかです。
「教える」というのは、わたしたちの思案をはるかにこえて困難をきわめる試練です。
教師も生徒(子ども)も、予定外の休憩・考案の時間が与えられた、今春のめぐりあわせでした。不幸・不運とばかり言っておられません。

一人でも「学ぶ」ことはできるけれども、複数の同士がいる方が好都合である場合もあるのです。(ぼくがダメ人間であるのは、まったく我流であったこと、なんでも自己流でしかやろうとはしなかったからでした。たいへんなまちがいでした。中・高校時代に野球部に入っていましたが、そこでも我流を路推しました。対外試合の時には自宅からバイク」で球場に出かけ、おわるとまた一人で帰るという具合でした。集団行動がまったく嫌いでした。個人主義というものを知らない頃から、ぼくは個人中心主義だった。だから、ここでこんな話をすること自体、ぼくには隔世の感がするのです。
それぞれが所属するクラスに何人かの仲間がいるのには理由があります。合唱やオーケストラを想定してみてください。一人では足りない、かなわない境地が求められるし、仲間で実践することで個々のメンバーが高められるという経験ができるのです。そのような、教室(授業)を生み出すためにこそ、生徒も教師もともに同時に存在しなければならないとぼくは経験してきました。ここのメンバーが高まることで全体が伸びるというのではなく、全体のレベルが上がればこそ、個々人の力もより高く発揮されるのです。また、そのような授業を目指そうとする人が教師なんだとぼくはずっと思ってきました。
(テレワークだのズームを使ったオンライン授業も結構ですが、さて、そこからひとつの「音楽」を作り上げていく共同作業が可能でしょうか、どこまで可能なんでしょうか。この部分はまた別の機会に。ぼくは人間のロボット(機械)化にはやみくもに反対はしないが、無条件で賛成もしません。自動車の「自動運転」もしかり。運転する楽しみや経験によって学ぶことが剥奪されます)
(これは、数年前にある雑誌に書いた拙論からの一部引用です。加筆したところがあります)(山埜郷司)